御書研鑚の集い 御書研鑽資料
題目弥陀名号勝劣事 第1章 南無妙法蓮華経の功徳
【題目弥陀名号勝劣事 文永元年 四三歳】
題目弥陀名号勝劣事 文永1年 43歳御作
【南無妙法蓮華経と申す事は唱へがたく、南無阿弥陀仏、南無薬師如来なんど】
南無妙法蓮華経と声に出すのは、難しく、南無阿弥陀仏、南無薬師如来などと
【申す事は唱へやすく、又文字〔もんじ〕の数の程も大旨は同じけれども、】
声に出すのは、容易なのです。また、文字の数自体も大体において同じなのですが、
【功徳の勝劣は遥〔はる〕かに替はりて候なり。】
その功徳には、遥〔はる〕かに大きな違いがあるのです。
【天竺〔てんじく〕の習ひ、仏出世の前には二天】
釈迦牟尼仏が生まれる以前のインドの習慣では、婆羅門〔ばらもん〕教の大自在天、
【三仙の】
那羅延〔ならえん〕天の二天、迦毘羅〔かびら〕 、漚楼僧佉〔うるそうぎゃ〕、
【名号を唱へて天を願ひけるに、】
勒娑婆〔ろくしゃば〕の三仙の名前を唱え、天界に生まれることを願ったのですが
【仏世に出〔い〕でさせ給ひては仏の御名〔みな〕を唱ふ。】
釈迦牟尼仏が出現してからは、仏の名前を唱えるようになったのです。
【然るに仏の名号を二天三仙の名号に対すれば、】
しかるに仏の名前と二天、三仙の名前を比べれば、
【天の名は瓦礫〔がりゃく〕のごとし、仏の名号は】
二天、三仙などの名前は、石や瓦〔かわら〕と同じであり、仏の名前は、
【金銀〔こんごん〕・如意宝珠〔にょい・ほうじゅ〕等のごとし。】
金や銀、如意宝珠〔にょい・ほうじゅ〕と同じなのです。
【又諸仏の名号は題目の妙法蓮華経に対すれば、】
また、諸仏の名前は、題目の妙法蓮華経に比べれば、その違いは、
【瓦礫と如意宝珠の如くに侍〔はべ〕るなり。】
石や瓦〔かわら〕と如意宝珠のように大きく異なるのです。
【然るを仏教の中の大小権実をも弁〔わきま〕へざる】
そうであるのに仏教の中の大乗教、小乗教、権教、実教の違いがわからない
【人師なんどが、仏教を知りがほ〔顔〕にして、仏の名号を】
人師などが仏教を知っているふりをして、阿弥陀などの仏の名前を
【外道等に対して如意宝珠に譬へたる経文を見、】
外道の二天、三仙の名前に対して、如意宝珠に譬〔たと〕えた経文を見て、
【又法華経の題目を如意宝珠に譬へたる経文と】
さらに法華経の題目を如意宝珠に譬〔たと〕えた経文を見て、
【喩〔たと〕への同じきをもて、】
それが外道の二天、三仙の名前に対しての譬えであると思い、
【念仏と法華経とは同じ事と思へるなり。同じ事と思ふ故に、又世間に】
念仏と法華経は、同じだと思っているのです。また、同じ事と思う為に世間で
【貴しと思ふ人の只弥陀の名号計りを唱ふるに随って、】
高貴と思われている人が阿弥陀仏の名ばかりを称〔とな〕えているのを見て、
【皆人一期〔いちご〕の間、一日に六万遍・十万遍なんど申せども、】
みんなが一生の間、一日に六万遍、十万遍と念仏を称〔とな〕えているのです。
【法華経の題目をば一期に一遍も唱へず。】
しかし、法華経の題目は、一生に一遍さえ唱えることがないのです。
【或は世間に智者と思はれたる人々、】
あるいは、世間で智者と思われている人々が、
【外〔そと〕には智者〔ちしゃ〕気〔げ〕にて内には仏教を弁へざるが故に、】
外面では、智者ぶっていても、内心では、仏教を理解していないが故に、
【念仏と法華経とは只一なり。南無阿弥陀仏と唱ふれば、】
念仏と法華経は同じで、その実態は一つであり、南無阿弥陀仏と称えれば、
【法華経を一部よむにて侍〔はべ〕るなんど申しあへり。】
法華経を全て読むことになるなどと話し合っているのです。
【是は一代の諸経の中に一句一字もなき事なり。】
しかし、このような教義は、釈迦一代の諸経の中に一句一字もないのです。
【設〔たと〕ひ大師先徳の釈の中より出でたりとも、】
たとえ大師、先徳の解釈の中から出て来た教義であったとしても、
【且〔かつ〕は観心の釈か、】
これは、法華経で説かれる観心の法門を解釈したものか、
【且はあて事かなんど心得べし。】
もしくは、一時の当て推量であると心得るべきなのです。
【法華経の題目は過去に十万億の生身の仏に値〔あ〕ひ奉りて、】
法華経の題目は、過去世に十万億の生身の仏に会い奉〔たてまつ〕って、
【功徳を成就する人、初めて妙法蓮華経の五字の名を聞き、】
功徳を成就した人が、その功徳によって初めて妙法蓮華経の五字の名を聞き、
【始めて信を致すなり。】
始めて法華経の題目を信じることができるのです。
【諸仏の名号は外道・諸天・二乗・菩薩の名号にあはすれば、】
諸仏の名称は、外道や諸天、二乗、菩薩の名に比べると、
【瓦礫〔がりゃく〕と如意〔にょい〕宝珠〔ほうじゅ〕の如くなれども、】
石や瓦〔かわら〕と如意宝珠のように優れていますが、
【法華経の題目に対すれば、又瓦礫と如意宝珠との如し。】
法華経の題目に比べれば、また石や瓦と如意宝珠ようなものなのです。
【当世の学者は法華経の題目と諸仏の名号とを功徳ひとしと思ひ、】
当世の学者が、法華経の題目と諸仏の名称は、その功徳が等しいと思い込み、
【又同じ事と思へるは、】
また、同じ事だと思っているのは、仏教の中の経典の優劣を知らず、
【瓦礫と如意宝珠とを同じと思ひ一と思ふが如し。】
石や瓦〔かわら〕と如意宝珠を同じと思い、一つと思うようなものなのです。
【止観の五に云はく「設〔たと〕ひ世を厭〔いと〕ふ者も】
摩訶止観〔まかしかん〕、第五巻に「たとえ世俗から離れた者であっても、
【下劣の乗を翫〔もてあそ〕び、枝葉に攀附〔はんぷ〕し】
劣った教えを尊〔とうと〕ぶのは、細くて頼りない枝葉〔えだは〕にすがりつき、
【狗〔いぬ〕の作務〔さむ〕に狎〔な〕れ、】
犬が飼い主を忘れて使用人の言葉に従うようなものであり、
【獼猴〔みこう〕を敬ひて帝釈〔たいしゃく〕と為し】
猿を敬〔うやま〕って帝釈天〔たいしゃくてん〕とし、
【瓦礫を崇めて是明珠〔みょうじゅ〕なりとす。】
石や瓦〔かわら〕を明珠〔みょうじゅ〕とする事と同じなのです。
【此の黒闇の人、】
このような道理に暗い人が、
【豈〔あに〕道を論ずべけんや」等云云。】
どうして道を論じることができるでしょうか」と述べられているのです。
【文の心は設ひ世をいとひて出家遁世〔とんせい〕して山林に身をかくし、】
この文章の意味は、たとえ、俗世を嫌って出家し山林に身を隠して、
【名利名聞をたちて一向に後世〔ごせ〕を祈る人々も、】
名利名聞を断ち切って一心に死後の成仏を祈る人々であっても、
【法華経の大乗をば修行せずして、権教下劣の乗につきたる名号等を唱ふるを、】
法華経の大乗を修行せず、権教の阿弥陀仏の名前を称〔とな〕える人を、
【瓦礫を明珠なんどと思ひたる僻人〔びゃくにん〕に譬へ、】
石や瓦〔かわら〕を明珠などと平気で嘘をつく者にたとえ、
【闇〔くら〕き悪道に行くべき者と書かれて侍〔はべ〕るなり。】
仏教や道理に暗い悪道を彷徨〔さまよ〕う者と書かれているのです。
【弘決〔ぐけつ〕の一には妙楽大師、】
止観輔行伝弘決〔しかん・ぶぎょうでん・ぐけつ〕、第一巻で、妙楽大師は、
【善住天子経を】
大方等善住意天子所問〔だいほうどう・ぜんじゅうい・てんししょもん〕経を
【かたらせ給ひて、法華経の心を顕はして云はく「法を聞きて謗を生じ、】
引かれて、法華経の心を明らかにし「法華経を聞いて正法謗法の罪を犯して、
【地獄に堕するは恒沙〔ごうじゃ〕の仏を供養する者に勝る」等云云。】
地獄に堕ちる者は、大河の砂ほどの仏を供養する者よりも優れている」と説かれ、
【法華経の名を聞きてそしる罪は、阿弥陀仏・釈迦仏・薬師仏等の】
法華経の名を聞いて謗〔そし〕る罪は、阿弥陀仏、釈迦牟尼仏、薬師仏等の
【恒河沙〔ごうがしゃ〕の仏を供養し、名号を唱ふるにも過ぎたり。】
大河の砂ほどの仏に供養し、名前を唱えるよりも大きいのです。
【されば当世の念仏者の念仏を六万遍乃至十万遍申すなんど云へども、】
したがって、当世の念仏者が念仏を六万遍とか十万遍、称〔とな〕えると言っても、
【彼にては終〔つい〕に生死〔しょうじ〕をはなるべからず。】
念仏の力では、いつまでも生死を離れることは、できずに成仏もできないのです。
【法華経を聞くをば千中無一・雑行〔ぞうぎょう〕・】
法華経を聞く者を千中〔せんちゅう〕無一〔むいつ〕、雑行〔ぞうぎょう〕、
【未有〔みう〕一人得者〔とくしゃ〕なんど名づけて、或は抛〔なげう〕てよ、】
未有〔みう〕一人得者〔とくしゃ〕などと言って、あるいは、抛〔なげう〕て、
【或は門を閉ぢよなんど申す謗法こそ、】
あるいは、門を閉じよなどと言っている正法への誹謗こそ、法華経の力によって、
【設〔たと〕ひ無間〔むけん〕大城〔だいじょう〕に堕〔お〕つるとも、】
いったんは、無間〔むけん〕大城〔だいじょう〕に堕ちることは、あったとしても、
【後に必ず生死は離れ侍らんずれ。】
その後に必ず、生死を離れ、成仏することができるのです。
【同じくは今生〔こんじょう〕に信をなしたらばいかによく候なん。】
同じであるならば、今世で信じる事ができれば、どれほど素晴らしいことでしょう。