日蓮正宗法華講 開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑚資料


背景と大意 第5章 念仏禁止の宣旨の経過


念仏者追放宣旨御教書事の最初に挙げられているのは、元久2年(西暦1205年)10月に興福寺が僧綱大法師などの名で朝廷に提出した「専修念仏の宗義を糺改〔きゅうかい〕せられんことを請うの状」の興福寺奏状です。
当時、伝教大師以来、仏教の中心として比叡山・延暦寺を北嶺というのに対して、京に都が遷〔うつ〕されてから、かつての都であった奈良が南方にあることから、奈良の七大寺を指して南都と呼んでいましたが、興福寺もこの中のひとつでした。
興福寺は、もともと藤原氏の氏寺であり、平安時代には、延暦寺に次ぐ広大な荘園と多数の僧兵を持ち、数々の争いを繰り返した後、その強大な力で朝廷に圧力をかけるほどの権力を手にしましたが、平清盛に反抗した為、平家の攻撃を受け、東大寺などとともに焼失し、その後、源頼朝の援助を受けて再建されました。
その後、興福寺の宗徒は、力を盛り返し、朝廷に強訴したり、武力をもって蜂起し、幕府とも抗争するなど、横暴な振る舞いが続いていたのです。
法然の専修〔せんじゅ〕念仏についても、延暦寺とともに強く反発しており、それが、この奏状となって、朝廷に提出されました。
興福寺の奏状を起草したのは、後鳥羽上皇の信頼が厚かった当時の南都を代表する学僧、解脱房・貞慶〔げだつぼう・じょうけい〕であろうとされています。
また、この奏状は、その末尾に「八宗同心の訴訟」とあるように興福寺だけの見解ではなく、俱舎宗、成実宗、律宗、華厳宗、三論宗、法相宗、天台宗、真言宗の八宗派の意見をまとめたものでした。
現在、伝わっている興福寺奏状には、第一に「新宗派を立てる罪」、第二に「新仏像を図する罪」、第三に「釈尊を軽んじる罪」、第四に「万善を妨げる罪」、第五に「神霊に背く罪」、第六に「浄土に暗い罪」、第七に「念仏を誤る罪」、第八に「宗徒を損じる罪」、第九に「国土を乱す罪」(趣意)の九箇条にわたっています。
その後、三条長兼によって興福寺と朝廷のやりとりがあって、後鳥羽上皇と「法然には、問題はなく、弟子である安楽房・遵西と法本房・行空に偏執がある為、両者を罪に処すること」で合意したのです。
しかし、その後も法然の専修念仏の勢いは、衰えず、更に、建永2年(西暦1207年)2月、法然の弟子の安楽〔あんらく〕と住蓮〔じゅうれん〕が、宮中の女房と密通したとして後鳥羽上皇の怒りを招き、二人は処刑され、専修念仏は、風俗を乱す邪教であるとの理由で禁止され、法然も僧籍を剥奪〔はくだつ〕され、土佐に流罪されました。
念仏無間地獄抄には、「承元〔しょうげん〕元年二月上旬に、専修念仏の張本たる安楽〔あんらく〕・住蓮〔じゅうれん〕等を捕縛〔めしとら〕へ、忽ちに頭を刎〔は〕ねられ畢〔おわ〕んぬ。法然房源空は遠流の重科に沈み畢んぬ。」(御書43頁)と述べられています。
この建永の事件以降、法然が死んでからも、念仏の勢いは、衰えることを知らず、順徳天皇の建保7年(西暦1219年)にも専修念仏の取り締まりが繰り返され、念仏者追放宣旨御教書事にも、この建保〔けんぽう〕7年の例が四編挙げられています。
さらに後堀河天皇の貞応3年(西暦1224年)5月17日にも、延暦寺の三千の大衆・法師などが、一向専修念仏の停止を求めて、その乱行〔らんぎょう〕を子細に述べた奏状を提出しましたが、これが念仏者追放宣旨御教書事の「山門の奏状」です。
嘉禄3年(西暦1227年)、法然が死去してから、すでに十五年が経っていましたが、専修念仏の火は、法然が生きていた時代以上に、その広まりを強くしていました。
特に京都・東山の法然の廟所(現在の知恩院・御廟)では、法然の命日である25日になると専修念仏者によって大規模な法要が行われていました。
その為、比叡山・延暦寺の僧たちは、それを、いつも苦々しい思いで眺めていたのです。
6月になり、天台宗の僧、定照が法然の弟子である隆寛に「選択集」を批判する「弾選択」を書いて送りました。
それを受けた隆寛は、この「弾選択」を徹底的に批判する「顕選択」をもって反論したのです。
そのような険悪な状況の中、嘉禄3年7月5日に朝廷より、比叡山・延暦寺の天台座主・円基にあてて山門への宣旨が下されました。
それは、当時、延暦寺の衆徒が、専修念仏の禁止と中心者の流罪を迫り、蜂起して朝廷に強訴〔ごうそ〕しようとしていた為、朝廷が念仏者を処分する宣旨を出すとして、宗徒を慰留したものです。
その内容は、「専修念仏を禁止することについては、代々の天皇の宣旨が度々出されているにも関わらず、なお、念仏を行ずる者がいるのは、ひとえに関係する官僚の怠慢であり、まったく、朝廷の責任ではない。延暦寺から、近年、念仏が、また勢いを盛り返しているとの訴えがあったので、先の宣旨にしたがって、ふたたび念仏禁止の命を出したのである。そのうえ、仏法の衰えるのを止め、衆徒の訴えを聞き入れ、念仏の中心者である隆寛、成覚、空阿弥陀仏などを流罪に処すとの宣旨がまもなく下されるであろう。この上は、叡山宗徒が蜂起するのを停止するように命ずべきである」というものでした。
この後堀河天皇の言葉を右中弁〔うちゅうべん〕の藤原信盛が勅命にして伝えたという形式になっています。
この中の先に出された宣旨とは、同年6月29日に、天台座主・円基に下された書状を指したものです。
また、なおも朝廷の責任を追及しようとする動きがあったので、衆徒の蜂起を止める為に、この7月5日に続いて、7月13日にも天台座主あての綸旨〔りんじ〕を発しています。
さらに同じ6月に延暦寺の天台座主が延暦寺の別院である感神院〔かんじんいん〕、現在の八坂神社の「犬神人〔いぬじにん〕」つまり感神院に仕える身分の低い神官に命じて法然の墓所を破壊させ、法然の遺骨を鴨川に流させました。
7月に入ると、隆寛は、陸奥に、幸西は、壱岐に、空阿は、薩摩に流罪になり、10月11日には、延暦寺の衆徒の大衆・詮議によって、選択集は、法華経を誹謗する謗法の書であり、天下に止め置いては、ならないとし、選択集と、その印版を延暦寺の大講堂の前で焼き払ったのです。
これら嘉禄3年(西暦1227年)6月29日から10月15日までの流れは、念仏無間地獄抄と念仏者追放宣旨御教書事に十一編が挙げられています。
他にも、念仏者追放宣旨御教書事に天福2年(西暦1234年)6月30日、一編、延応2年(西暦1240年)5月14日、二編が挙げられており、天福2年と延応2年と専修念仏の取り締まりが繰り返されています。
このように仏法上からも、世法上からも、邪義、邪宗であることが、はっきりしているにも、かかわらず、大聖人御在世の頃には、ほとんどの人が、その事を知らず、念仏信仰は、一向にやまず、全国的に流布していたのです。
これらのことが権力者の念仏への不当な迫害であると史実を歪〔ゆが〕めて、念仏者が伝えた結果、それに騙された比叡山の僧侶や三井寺の寺法師でさえ、法然の教えを褒め称えるようになったのです。
大聖人が流された佐渡にも、阿仏房や印性〔しんしょう〕房など、念仏の強信者がいたことを考えると、日本全国に念仏が広がっていたことがわかります。
このような中で念仏者は、正法誹謗の罪人であり、無間地獄の業因を弘める魔物であると主張した日蓮大聖人への念仏者の批判や迫害が、いかに激しかったかを知るべきでしょう。
現在に於いても、念仏は、厳然と存在し続け、いまでも声をあげて念仏を称〔とな〕えている姿を、あちらこちらで見かけます。
また、日蓮宗を、はじめとして創価学会、立正佼成会、霊友会など新興宗教が、日蓮大聖人の本門の題目が三大秘法である弘安二年御図顕の本尊であることも理解できずに、勝手に自分たちが作った本尊に向かって早口で題目を連呼する姿は、なんら法然の法華不信の姿と変わりないのです。


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