日蓮正宗法華講 開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑚資料


背景と大意 第1章 念仏は無間地獄の業因


日蓮大聖人は、十六歳の時(西暦1237年)、生まれ故郷の安房国東条郷・清澄寺で道善房を師として出家され、名を是聖房蓮長と改められました。(注1)
その頃より、釈迦牟尼仏一人が悟られた仏説が、なぜ、このように多くの宗派に分かれているのかということに疑問を持たれ、虚空蔵菩薩に日本第一の智者となし給えと願われました。(注2)
その後、鎌倉、比叡山、三井寺、高野山、南都六宗派を遊学され、従来からの疑問を解く為に一切の経文、諸宗派の宗旨をことごとく研鑽されたのです。
そして、南無妙法蓮華経こそ、唯一最高の教えであることを悟られ、建長5年(西暦1253年)の春、御歳三十二の時に故郷、安房の道善房のもとへ戻られたのです。
同年、三月二十八日、清澄寺の持仏堂で、師匠の道善房、浄円房、少々の聴衆の前で宗旨建立の理由を宣〔の〕べられたのです。
それは、当時、念仏さえ称〔とな〕えれば、どのような悪人であっても、また、無智な者であっても、阿弥陀仏の本願に依って極楽往生が叶〔かな〕うという実に手軽で無責任極まる教えが流行り、また、その形態を変えながら、現代の新興宗教のように広まっていったのです。
事実、この時期には、後の極楽寺・良観となる忍性〔にんしょう〕などが、鎌倉進出を狙って関東各地で組織的に布教活動を行っていたのです。
良観は、元来、道理に暗く天台宗、律宗、真言宗などと渡り歩きましたが、結局、何が釈迦牟尼仏の本懐なのかがわからず、ただ、聞こえの良い公共事業や怪しげな祈祷〔きとう〕、慈善活動に活躍の場を広げ、その中で当時、多くの民衆に支持されていた念仏をも取り入れて、もはや、なんでもありの真言とも律宗とも、また念仏ともわからぬ真言律宗などという新興宗教になっていきました。
その新興宗教が強大な組織になるにつれ、北条重時、北条時頼などの幕府要人や各地の権力者と結びつき、福祉事業を装った利権を我がものとしていったのです。
その為、大聖人が念仏を無間地獄の業因であると言い出すことは、この当時、民衆から生き仏様などと呼ばれていた極楽寺・良観や幕府権力者を敵にまわす命に及ぶことであったのです。
しかし、虚空蔵菩薩と師の道善房に報〔むく〕いる為、浄土宗がとんでもない間違いであることをここで明確に告げられたのです。(注3)
さらにそれから一か月後の4月28日に大聖人は、清澄山の嵩が森〔かさがもり〕に立たれ、昇る太陽に向かって初めて前代未聞の自行化他に亘〔わた〕る題目を唱えられたのです。(注4)
これは、日蓮大聖人が一切衆生を救われる末法の御本仏であることを自〔おのずか〕ら悟られ、日蓮と名乗られることを宣言されたものです。(注5)
その日の正午、清澄寺の持仏堂に遊学から帰られた日蓮大聖人の話を聞こうと多くの人々が集まっていました。
その人々の前で、題目を唱えられ、立教開宗されたのです。(注6)
そして、その場で南無阿弥陀仏を無間地獄の業因であると非難した為、人々は、大いに驚き、見る人、聞く人が耳を塞〔ふさ〕ぎ、眼を怒らせ、口を顰〔ひそ〕め、手を握り、歯噛みし、父母、兄弟、師匠、善友もすべて敵となったのです。(注7)
その時に日蓮大聖人の話を聞いていた熱心な念仏の信者である地頭の東条景信〔かげのぶ〕は、烈火のごとくに怒り狂い、大聖人の身に危害を加えようとしたのです。
その後、兄弟子であった浄顕房、義浄房の手引きで、東条景信から逃れられた大聖人は、鎌倉の松葉ケ谷〔まつばがやつ〕に草庵を結ばれ、弘教に励まれたのです。
この時期の弘教は、主に日本浄土宗の始祖、法然房・源空〔ほうねんぼう・げんくう〕が主張した専修〔せんじゅ〕念仏の邪義を指摘することにありました。
日蓮大聖人は、それに何の根拠も道理もないことを説いて、末法においては、釈迦牟尼仏の最高の教えである法華経の文底に秘沈された題目を唱えなければ、ならないことを主張されたのです。
しかし、幕府の権力者や当時の仏教界は「念仏は、無間地獄の業因である」と説く日蓮大聖人に対し、正論を振りかざす生意気な僧だと苦々しく思い、また、念仏を信じる多くの民衆にとっては、大聖人こそ阿弥陀仏を冒涜〔ぼうとく〕する仏敵であると怨嗟〔えんさ〕の的になっていたのです。
そんな中で正嘉元年(西暦1257年)8月23日、午後9時ごろ鎌倉地方を大地震が襲い、大きな音とともに、すべての神社仏閣が壊れ、家、屋敷が転倒し、山が崩れ、水が湧き出て、地が裂け、その中から青い炎が見えるような大災害が起こりました。
そのことが吾妻鏡〔あずまかがみ〕に書かれています。
また、翌年の8月1日には、大風、同三年の大飢饉、そして、この大飢饉の為に改元した正元元年の大疫病と民衆は、立て続く災難に絶望的な状況に打ちひしがれていたのです。
すでに、これらの災難で大半の者が死に直面し、その間、幕府、朝廷は、仏教、神道を問わず、種々の祈祷を執り行いましたが、それに何の効果も得られず、少しの変化も無かったのです。(注8)
立正安国論にも疫病と飢饉で牛馬が巷〔ちまた〕に倒れ、骸骨が路に溢れて死を待つ者が既に大半に超え、これを悲しまない者は、一人も無く、その間にも念仏を称〔とな〕え続けたと述べられています。(注9)
この有様を見て大聖人は、なぜ、これらの祈祷に効果がないのか、なぜ、逆に災難が立て続けに起こるのかを道理と一切経の文章によって、わかったと述べられ、(注8)、それは、国中の人々が法華経を蔑〔ないがし〕ろにして、念仏を称〔とな〕えているからであり、そのことで日本を守護すべき諸天善神が怒〔いか〕っているからであると断言されたのです。(注10)

(注1) 御書1708頁 「御名乗りの事、始めは是生〔ぜしょう〕、実名〔じつみょう〕は蓮長〔れんちょう〕と申し奉る。」(産湯相承事)

(注2) 御書443頁 「幼少の時より虚空蔵〔こくうぞう〕菩薩に願を立てゝ云はく、日本第一の智者となし給へと云云。」(善無畏三蔵抄)

(注3) 御書946頁 「其の上、禅宗・浄土宗なんど申すは又いうばかりなき僻見の者なり。」(清澄寺大衆中)

(注4) 御書1594頁 「末法に入って今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり。」(三大秘法稟承事)

(注5) 御書1393頁 「日蓮となのる事自解仏乗〔じげ・ぶつじょう〕とも云ひつべし。」(寂日房御書)

(注6) 御書1396頁 「去ぬる建長五年(太歳癸丑)四月二十八日に、安房国長狭郡〔ながさのこおり〕の内、東条の郷、今は郡なり。(中略)此の郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして、午〔うま〕の時に此の法門申しはじめて今に二十七年、」(聖人御難事)

(注7) 御書1431頁 「南無阿弥陀仏を、無間〔むけん〕地獄の業なりと申し候ゆへに、(中略)去ぬる建長五年四月二十八日より今弘安二年十一月まで二十七年が間、退転なく申しつより候事、(中略)はじめは日蓮只一人唱へ候ひしほどに、見る人、値ふ人、聞く人耳をふさぎ、眼をいか〔怒〕らかし、口をひそめ、手をにぎり、は〔歯〕をか〔噛〕み、父母・兄弟・師匠・ぜんう〔善友〕もかたき〔敵〕となる。」(中興入道御消息)

(注8) 御書367頁 「正嘉〔しょうか〕元年(太歳丁巳)八月廿三日戌亥〔いぬい〕の時、前代に超えたる大地振〔じしん〕。同二年(戊午)八月一日大風。同三年(己未)大飢饉。正元〔しょうげん〕元年(己未)大疫病〔だいやくびょう〕。同二年(庚申)四季に亘りて大疫已〔や〕まず。万民既に大半に超えて死を招き了んぬ。而る間国主之に驚き、内外典に仰せ付けて種々の御祈祷〔きとう〕有り。爾〔しか〕りと雖も一分の験〔しるし〕も無く、還りて飢疫等を増長す。日蓮世間の体〔てい〕を見て粗〔ほぼ〕一切経を勘〔かんが〕ふるに、御祈請〔きしょう〕験無く還りて凶悪を増長するの由〔よし〕、道理文証之を得了〔おわ〕んぬ。」(安国論御勘由来)

(注9) 御書234頁 「天変・地夭〔ちよう〕・飢饉〔ききん〕・疫癘〔えきれい〕遍〔あまね〕く天下に満ち、広く地上に迸〔はびこ〕る。牛馬巷〔ちまた〕に斃〔たお〕れ、骸骨〔がいこつ〕路〔みち〕に充〔み〕てり。死を招くの輩〔ともがら〕既に大半に超〔こ〕え、之〔これ〕を悲しまざるの族〔やから〕敢〔あ〕へて一人〔いちにん〕も無し。然〔しか〕る間、或は利剣〔りけん〕即是〔そくぜ〕の文を専〔もっぱ〕らにして西土〔さいど〕教主の名を唱へ、」(立正安国論)

(注10) 御書370頁 「抑〔そもそも〕去ぬる正嘉〔しょうか〕元年(丁巳)八月二十三日戌亥〔いぬいの〕刻の大地震、日蓮諸経を引いて之を勘〔かんが〕へたるに、念仏宗と禅宗等とを御帰依有るがの故に、日本守護の諸大善神、瞋恚〔しんに〕を作して起こす所の災ひなり。」(宿屋入道許御状)


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