日蓮正宗法華講 開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑚資料


背景と大意 第8章 念仏者追放宣旨御教書事・下 (御書167頁)


(8) 大政官から藤原頼隆、小槻国宗への公文書 (御書167頁)
「大政官〔だじょうかん〕の符。(中略)符〔ふ〕到らば奉行を致せ。」
「修理右〔う〕宮城使〔きゅうじょうし〕正四位下行右中弁藤原朝臣」
「修理東大寺大仏長官正五位下左大史兼〔けん〕備前〔びぜんの〕権介〔ごんのすけ〕小槻宿禰」

【大政官の符】
日本の律令制のもとで太政官が管轄下の諸官庁や諸国へ発令した正式な公文書。官符とも言う。
符とは、元来、官庁が自己の管轄下にある下位の官庁に出す命令文書を指し、太政官以外の官庁でも、これを出すことが出来たが、太政官は、原則として他の全ての官庁に対して符が出せた。重要な法令も太政官符の書式を用いて出されることがあったことから、極めて重みを有した。

【修理右宮城使〔しゅり・うきゅうじょうし〕】
宮城の造営、修理にあたり臨時に任命された官職のひとつで、その長官のこと。弁官などが兼任した。
修理宮城使は、左右に分かれ、それぞれに部下の判官・主典がいた。

【正四位下行右中弁】
正四位は、官位であり、右中弁は、太政官の判官にあたる官職で正五位の位に相当した。
自分の官位よりも下位に相当する職についた場合、官位と官職の間に「行」という文字を記入した。

【修理〔しゅり〕東大寺大仏長官】
鎌倉時代、東大寺、大仏殿の修理、造営の為に臨時に設置された官職。
律令制下では、造東大寺司が置かれて東大寺の造営などを行っていたが、この頃は、名目だけになっていた。

【大史〔たいし〕】
太史。中国、古代の官名。日本律令制において神祇官・太政官(弁官局)に設置された。

【備前権介】
備前国の国司の次官の権官。備前国は、律令制で国を四等級に分けたうちの第二位の上国。

(9) 藤原頼隆より天台座主への書状 (御書167頁)
「専修念仏興行の輩停止すべきの由(中略)頼隆〔よりたか〕誠恐〔せいきょう〕頓首〔とんしゅ〕謹言〔きんげん〕。」
「七月十三日」「右中弁〔うちゅうべん〕頼隆〔よりたか〕 在判」
「進上 天台座主大僧正御房 政所〔まんどころ〕」

(10) 藤原頼隆より中納言律師への宣旨 (御書167頁)
「隆寛。対馬国に改めらるべきの由宣下せられ畢〔おわ〕んぬ。(中略)此の趣を以て申し入れしめ給うべきの状件〔くだん〕の如し。」
「右中弁頼隆 在判」
「中納言律師御房」

【隆寛〔りゅうかん〕】
(西暦1148年~1227年)。隆観のこと。平安末期、鎌倉初期の念仏僧。浄土宗・長楽寺流の祖。字は、道空(または皆空)、無我ともいう。
藤原資隆の第三子。幼くして比叡山に登り、伯父の皇円に天台宗義を学び、座主慈円に師事した。
その後、浄土の教義に心を引かれ、法然の門に入って念仏の法を学び、元久元年(西暦1204年)には、選択集の書写を許された。
京都・長楽寺に住し、多念義を主張した。
法然の死後、定照の「弾選択」に対して「顕選択」を著したことが、きっかけとなり、嘉禄3年(西暦1227年)、勅令によって奥州へ流罪となったが、途中の相模国〔さがみのくに〕・飯山に留まり、その地で没した。

【中納言律師御房〔りっし・ごぼう〕】
中納言の父をもった律師のこと。律師は、僧尼を統括した僧綱の一つで、僧正・僧都に次ぐ僧官。
ここでは、天台座主の侍者のことと思われる。

【中納言】
太政官に置かれた官職のひとつ。太政官においては、四等官の次官に相当する。

(11) 平範輔より北条時氏への書状 (御書167頁)
「隆寛律師。(中略)者〔ていれば〕殿下の御気色に依って執達〔しったつ〕件〔くだん〕の如し。」
「嘉禄三年九月二十六日」「参議 在判」
「修理権亮〔ごんのすけ〕殿」

(12) 太政官・平範輔より執権・北条武蔵守泰時への書状 (御書168頁)
「専修念仏の事。(中略)殿下の御気色候所なり。仍って執達件の如し。」
「嘉禄三年十月十日」「参議 在判」
「武蔵守〔むさしのかみ〕殿」

(13) 太政官・藤原光親より光明寺住職・良暁への院宣 (御書168頁)
「嵯峨〔さが〕に下さるゝ院宣〔いんぜん〕(中略)院宣此くの如し。仍って執達件の如し。」
「建保〔けんぽう〕七年後二月四日」「按察使〔あぜち〕 在判」
「治部卿〔じぶきょう〕律師御房」

【院宣〔いんぜん〕】
上皇からの命令を受けた院司が、奉書形式で発給する文書。天皇の発する宣旨に相当する。院庁下文よりも私的な形式。

【按察使〔あぜち〕】
地方行政を監督する官職。数カ国の国守の内から1人を選任し、その管内における国司の行政の監察を行った。
奈良時代の養老3年(西暦719年)に設置され、平安時代以降は、陸奥国・出羽国の按察使だけを残し、納言・参議などとの兼任となり実体がなくなった。
ここでは、後鳥羽上皇に仕えた藤原光親をさす。

【治部卿律師〔じぶきょうりっし〕御房】
治部卿の官職にある父をもった律師のこと。
ここでは、鎌倉の光明寺第二代住職、良暁〔りょうぎょう〕のこと。

(14) 順徳天皇より良暁への院宣 (御書168頁)
「謹んで請〔う〕く 院宣一紙(中略)謹んで請くる所件の如し。」
「建保七年閏〔うるう〕二月四日」
「権律師良暁〔りょうぎょう〕」

【権律師〔ごんのりっし〕】
日本の律令制における僧官の役職の1つである律師のうち最も低い地位の役職のこと。中律師の下。

【良暁〔りょうぎょう〕】
鎌倉時代の嵯峨・清涼寺の僧。詳細不詳。

(15) 太政官・小槻国宗より僧綱所への命令 (御書169頁)
「左弁官下す 綱所〔こうしょ〕(中略)者〔ていれば〕宜しく承知して宣旨に依つて之を行なふべし。」
「建保七年閏二月八日」「大史〔だいし〕小槻〔おつき〕宿禰〔すくね〕 在判」

【左弁官〔さべんかん〕】
律令制における官職のひとつ。太政官に属し、八省のうち中務・式部・治部・民部を掌握する。
左大弁・左中弁・左少弁からなる。

【綱所〔こうしょ〕】
僧綱所とも言い、日本の寺院統率の最高機関として養老6年(西暦722年)に奈良の薬師寺に設置された。
全国の僧を取り締まり、諸寺の管理等の一切の法務を行う僧官職である僧綱〔そうごう〕が職務を行い,またその任官の式を行う事務所。

(16) 順徳天皇の僧綱所の受書 (御書169頁)
「謹んで請〔う〕く 綱所(中略)諸寺に告げ触〔ふ〕るべきの状、謹んで請くる所件の如し。」
「建保七年閏〔うるう〕二月二十二日之を行なふ。」

(17) 藤原経通よりの書状 (御書170頁)
「頃年〔きょうねん〕以来無慚〔むざん〕の徒(中略)至心専念如法修行の輩に於ては制の限りに在らず。」
「天福二年六月晦日〔みそか〕」「藤原中納言権弁 奉る」
「(天福二年文暦と改む。四条院の御宇、後堀河院の太子なり。武蔵前司入道殿の御時)」

【藤原中納言】
ここでは、藤原経通〔ふじわらのつねみち〕か藤原実基〔ふじわらのさねもと〕のこと。

【権弁〔ごんのべん〕】
権右中弁のこと。右中弁の権官をいう。
ここでは、藤原信盛〔ふじわらののぶもり〕のこと。

【四条院〔しじょういん〕】
第87代・四条天皇(西暦1231年~1242年)のこと。鎌倉時代の天皇。後堀河天皇の第一子。

【後堀河院〔ごほりかわいん〕】
第86代・後堀河天皇(西暦1212年~1234年)のこと。鎌倉時代の天皇。

【武蔵前司入道〔むさしぜんじ・にゅうどう〕】
北条泰時(西暦1183年~1242年)のこと。
北条幕府、第三代執権。北条泰時は、承久元年(西暦1219年)から暦仁元年(西暦1238年)まで武蔵守を務めた。
以後、武蔵前司と呼ばれ、没する前年の仁治3年(西暦1242年)には出家して観阿と名のったので、死後、武蔵前司入道と称された。

【武蔵前司〔むさしぜんじ〕】
武蔵国の前の国司のこと。武蔵国は、現在の埼玉県、東京都、神奈川県の一部。
鎌倉時代には、幕府の重臣が国司となっていた。
北条家では、泰時、朝直、経時、長時、宣時、義政などが国司の任についている。

(18) 比叡山より祇園の執行への下知状 (御書170頁)
「祇園〔ぎおん〕の執行に仰せ付けらるゝ山門の下知〔げち〕状(中略)専修念仏者を停止せしめ給ふべし云云。恐恐謹言。」
「延応二年五月十四日」「公文〔くもん〕勾当〔こうとう〕審賢〔しんけん〕」
(四条院の御宇武蔵前司殿の御時)

【祇園〔ぎおん〕】
祇園神社、感神院の別号で八坂神社のこと。
貞観18年(西暦876年)神託と称し、播磨国広峰から牛頭天王を移したのが、はじめで、観慶寺・感神院と号し、興福寺の所管に属した。
天延2年(西暦974年)3月、延暦寺・別院、日吉社の末社となった。祇園祭の宮司社として有名。

【執行〔しゅぎょう〕】
寺院の庶務を取り締まる僧職、または、寺務を総括する僧職である総検校〔そうけんぎょう〕の下に属する職務を指す。

【下知状〔げちじょう〕】
上意下達を目的として下位の機関、または、個人にあてて出された命令文書の古文書形態の一種。

【公文勾当〔くもん・こうとう〕】
公文書を扱う事務を担当する役職のこと。

【審賢】
鎌倉時代の延暦寺の僧。詳細不詳。

(19) 延暦寺・別院・雲居寺から祇園の執行法眼への書状 (御書170頁)
「謹上 祇園の執行法眼御房(中略)当時興行の所なり。」
「延暦寺 別院雲居〔うんご〕寺」

【法眼】
僧位のひとつ。法眼和尚位〔ほうげん・かしょう・い〕、また、その略称。

(20) (御書171頁)
「早く一向専修の悪行を禁断すべき事(中略)者〔ていれば〕三千衆徒の僉議に依って仰〔おほ〕する所件〔くだん〕の如し。」
「延応二年」

(21) 比叡山から朝廷への申状 (御書172頁)
「山門申状(中略)右自今〔じこん〕以後に於ては三代の将軍並びに二位家の御成敗に準じて御沙汰を改むるに及ばずと云云。」

【申状〔もうしじょう〕】
下位の者から上位の者に向かって差し出される上申のための文書様式。
元来は、申文〔もうしぶみ〕と同義語であったが、後世においては天皇・太政官への官位申請などに限定されて用いられるため、申状とは区別される。

【二位家〔にいけ〕】
鎌倉幕府・征夷〔せいい〕大将軍、源頼朝〔みなもとのよりとも〕のこと。

勘文篇

「念仏者追放宣旨御教書の事」

【勘文〔かんもん〕】
勘文(かんもん)とは、朝廷や幕府からの諮問〔しもん〕を受けて、学者などが由来や先例等の必要な情報を調査して報告(勘申)を行った文章のこと。
「勘文〔かもん〕」「勘え文〔かんがえぶみ〕」とも言う。
日蓮大聖人は、「立正安国論」を勘文の書として、時の執権に提出されている。


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