御書研鑚の集い 御書研鑚資料
背景と大意 第7章 念仏者追放宣旨御教書事・上 (御書161頁)
念仏者追放宣旨御教書事(御書161頁)は、御執筆の日付けが記されていませんが、本文中に「正嘉二年十二月十日評定」の記述があるので、それ以後に著わされたことは、明らかです。
翌年の正嘉3年(西暦1259年)が3月に改元され、正元元年となりました。
おそらく、この年に鎌倉において御述作されたと推定されています。
そうであれば、正元元年は、日蓮大聖人が、鎌倉の松葉ケ谷〔まつばがやつ〕の草庵を拠点にして、正法の弘通をされていた頃となります。
また、同年、後に鎌倉幕府の北条時頼に提出されて有名になる立正安国論に先駆けて書かれた守護国家論を著述されています。
本抄の題号を「念仏者追放宣旨〔せんじ〕御教書〔みぎょうしょ〕事」と言い、「念仏者を追放せしむる宣旨・御教書・五篇に集列する勘文状」と称されて、これは、念仏者の追放を命じた宣旨・御教書・諸寺の奏状・山門の下知状・申状などを勘〔かんが〕えた書という意味となります。
なお、挙げられた宣旨、御教書、奏状などの内容を五篇とされたものの、本抄中には、「奏上篇」「宣旨篇」のみがあり、他の三篇は、明らかでは、ありません。
初めに、大聖人が念仏の禁止を命じられた宣旨〔せんじ〕などを集められた趣旨を述べられ、次に奏状〔そうじょう〕篇として、奈良と比叡山の奏状を挙げられています。
また、宣旨〔せんじ〕篇として、宣旨と御教書〔みぎょうしょ〕などを挙げられ、最後に比叡山の下知〔げち〕状と申状〔もうしじょう〕を挙げられています。
これらの内容については、実際の興福寺奏状などと異なっている部分があったり、ほとんど同じ部分があったりしていますが、大聖人が前置きの御文で「勘注〔かんちゅう〕の文繁くして見難し。知り易からしめんが為に要を取り諸〔しょ〕を省き」(御書162頁)と仰せのように、これらを例示されているのは、あくまでも法然の邪義を顕わす為であって、朝廷、太政官、比叡山、奈良八宗の書状を理解しやすくするために若干、文章を変えられたものと思われます。
それらの例示をされた後、最後の結論として、専修念仏を禁止し、廃すべきことを述べられて、本抄を結ばれています。
奏状篇
(1) 興福寺より朝廷への奏状 (御書162頁)
「一、人を謗〔そし〕り、法を謗〔そし〕っている事(中略)又魔界に堕つべきの類か。(之を略す。)」
【南都の奏状】
元久2年(西暦1205年)10月、興福寺の僧、綱〔ごう〕等が法然の専修念仏に九箇条の失〔とが〕があるとして上奏した興福寺の奏状。
【南都】
奈良のこと。京都の平安京に対して、南に位置するので都であった奈良をこのように呼ぶ。
【奏状】
天皇に上申する内容を記した文書。
(2) 比叡山より朝廷への奏状 (御書163頁)
「一向専修の党類神明に向背〔こうはい〕する不当の事(中略)是亡国の音なるべし(是四)。(已上奏状)。」
【山門の奏状】
貞応3年(西暦1224年)5月17日、延暦寺の三千の大衆・法師等が、一向専修念仏の停止を求めて、その乱行〔らんぎょう〕を子細に述べた奏状のこと。
内容は、「弥陀念仏を以って別に宗を建つべからざる事」「一向専修の党類神明に向背する不当の事」「一向専修倭漢の例快からざる事」「諸州の修行を捨て専ら弥陀仏を念ずる広行流布の時節末だ至らざる事」「一向専修の輩経に背き師に逆らう事」「一向専修の濫悪を停止し護国の諸宗を興隆せらるべき事」の6項目よりなっている。
宣旨篇
(3) 延暦寺の学僧・永尊竪者の書状 (御書164頁)
「永尊竪者の状に云はく、(中略)重ねて仰せ下され候か。恐々。」
「嘉禄〔かろく〕三年十月十五日」
(4) 太政官・平範輔から北六波羅探題・北条時氏への書状 (御書165頁)
「専修念仏の張本成覚〔じょうかく〕法師(中略)仍って執達〔しったつ〕件〔くだん〕の如し。」
「十月二十日」「参議範輔〔のりすけ〕 在判」
「修理〔しゅりの〕権亮〔ごんのすけ〕殿」
【専修念仏〔せんじゅ・ねんぶつ〕】
他の行をせず、ただ、ひたすら念仏だけを称えること。
【成覚房・幸西〔じょうかくぼう・こうさい〕】
(西暦1163年~1247年)。鎌倉時代前期の浄土宗の僧。一念義を説く中心人物。
始めは、延暦寺・西塔〔さいとう〕の僧となり、鐘下房少輔と称して、天台を修学した。
建久九年(西暦1198年)に遁世して、三十六歳の時、法然・門下となった。
元久元年(西暦1204年)の「七箇条制誡」では、十五番目に署名をしている。
建永元年(西暦1206年)の興福寺が院に訴えた中にも、幸西の名が挙げられているなど、法然門下として活発な活動をした。
結局、承元元年(西暦1207年)法然が土佐に流罪となった建永の法難では、阿波に流罪となった。
しかし、慈円の預かりで流罪は、免れたともいわれる。
さらに、法然・没後の嘉禄3年(西暦1227年)におこったいわゆる嘉禄の法難では、枝重と改名して壱岐に流罪となった。
これについても、壱岐には、弟子を遣わし、幸西自身は、讃岐にあったとも伝えられている。
その後、赦免されて、晩年は、下総国・栗原で念仏を布教したという。
幸西は、称名・念仏の数によらず、一声の称名、または、一念の信によって往生できるという一念義を主張したため教団内からも非難された。
【修理権亮〔しゅりごんのすけ〕】
平安時代に設置された令外官。和名は「をさめつくるつかさ」。
宮中の造営、修理をする修理職の次官のこと。ここでは、第三代、執権・北条泰時の長子、北条時氏〔ほうじょう・ときうじ〕のこと。
(5) 執権・北条武蔵守泰時、北条時宗から太政官・北条時盛への御返事 (御書165頁)
「関東より宣旨の御返事(中略)鎌倉殿の仰せに依って執達件の如し。」
「嘉禄三年十月十五日」「武蔵守 在判」「相模守 在判」
「掃部助〔かもんのすけ〕殿」「修理亮〔しゅりのすけ〕殿」
【関東・相模守〔さがみのかみ〕】
関東とは、鎌倉幕府を指し、相模守は、相模国の国主のこと。源氏滅亡後は、北条幕府の最有力者が任ぜられた。
ここでは、北条政子、北条義時の弟で鎌倉幕府・初代連署・北条時房〔ほうじょう・ときふさ〕のこと。
【相模守〔さがみのかみ〕】
相模国(神奈川県)の国司の敬称。
鎌倉時代には、相模国は、幕府の所在地であったので、執権や連署などの重職にある者が国司を兼ねるのが常であった。
ここでは、鎌倉幕府、第八代執権・北条時宗〔ときむね〕を指すが、時宗は、文永元年(西暦1264年)に連署となり、翌年、相模守に任じられている。
【掃部助〔かもんのすけ〕】
掃部寮〔かもんりょう〕の副長官のこと。
弘仁11年(西暦820年)、宮内省の内掃部司と大蔵省の掃部司とを併合して掃部寮とし、宮内省に属した。
宮中の掃除や儀式の設営などを行う役所。また、その職員。
鎌倉時代以後は、武家に与える官名になり、武家の私称に用いられた。
ここでは、北条時房の子、北条時盛〔ほうじょう・ときもり〕のこと。
(6) 太政官・藤原信盛より比叡山・天台座主・円基への書状 (御書166頁)
「専修念仏の事。(中略)信盛〔のぶもり〕頓首〔とんしゅ〕恐惶謹言。」
「六月二十九日」「左衛門権佐〔ごんのすけ〕信盛〔のぶもり〕 奉る」
「進上 天台座主大僧正〔そうじょう〕御房 政所〔まんどころ〕」
【左衛門権佐〔さえもんごんのすけ〕】
衛門府とは、律令制における官司。諸門の警護、出入りを管理する役所。
当初は、一つであったが、弘仁3年(西暦812年)に左衛門府と右衛門府の二つが置かれた。
唐名は、金吾。監門。権佐〔ごんのすけ〕は、次官を意味する。
【信盛〔のぶもり〕】
藤原信盛〔ふじわらののぶもり〕(西暦1193年~1270年)。鎌倉時代前期の公卿(参議)。参議・藤原盛経の長男。
(7) 小槻国宗・藤原頼隆より延暦寺への命令 (御書166頁)
「右弁官〔べんかん〕下す 延暦寺(中略)違失あるべからず。」
「嘉禄三年七月六日」「左大史〔さたいし〕小槻〔おつき〕宿禰〔すくね〕 在判」「左少弁〔さしょうべん〕藤原朝臣〔あそん〕 在判」
【右弁官〔うべんかん〕】
律令制の政治機関である太政官の中の八省のうち兵部・刑部・大蔵・宮内を掌握する要職。
左弁官、少納言と並び、太政官の三局と呼ばれた。右大弁・右中弁・右少弁からなる。
【延暦寺〔えんりゃくじ〕】
滋賀県・大津市・坂本本町にある天台宗の寺院。正式には、比叡山〔ひえいざん〕延暦寺。
平安時代初期の僧・最澄(西暦767年~822年)により開かれた。住職は、天台座主と呼ばれ、平安時代には、皇室の尊崇〔そんすう〕を得て大きな力を持った。
天台密教による加持祈祷は、真言宗の東寺の密教(東密)に対して「台密」と呼ばれた。
また、興福寺を指す南都に対して北嶺〔ほくれい〕、園城寺を指す寺門に対して山門の異称もある。
延暦寺とは、単独寺院の名称ではなく、比叡山の山上から東麓にかけて位置する、東塔〔とうどう〕、西塔〔さいとう〕、横川〔よかわ〕などの、これらを「三塔十六谷」の百五十ほどの堂塔の総称である。比叡山は、最盛期は、三千を越える寺社で構成されていた。
【左太史〔さだいし〕】
太政官の主典にあたる官職のひとつ。左弁官の下に左大史と左少史とがあり、書記の役目をした。位は正六位上。
【小槻宿禰〔おつぎのすくね〕】
小槻氏は、近江国(滋賀県)栗太郡〔くりたぐん〕に住んでいた豪族。垂仁〔すいにん〕天皇の子孫と称し、平安時代から江戸時代末まで官務を世襲した。
ここでは、小槻国宗〔おづきのくにむね〕か、その子、小槻通時〔おづきのみちとき〕のことと思われる。
【左少弁〔さしょうべん〕】
律令制で、太政官の官職のひとつ。中務〔なかつかさ〕、式部〔しきぶ〕、治部〔じぶ〕、民部〔みんぶ〕の四省を掌握する左弁官に務める。
正五位下相当。
【藤原朝臣〔ふじわらのあそん〕】
天武13年(西暦684年)に制定された八色の姓の制度で、新たに作られた姓。
皇族以外の臣下の中では、事実上一番上の地位にあたる。
ここでは、藤原頼隆〔ふじわらのよりたか〕のこと。