日蓮正宗法華講 開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑚資料


背景と大意 第9章 当世念仏者無間地獄事 (御書312頁)


当世念仏者無間地獄事の冒頭の「端書き」にも「安房〔あわの〕国長狭郡〔ながさのこおり〕東条花房〔はなぶさの〕郷蓮華寺に於て浄円房に対して日蓮阿闍梨〔あじゃり〕之を註す。文永元年甲子九月二十二日。」(御書312頁)とあり、この御書は、文永元年(西暦1264年)9月22日、日蓮大聖人が安房の蓮華寺で前述の浄円房に対して与えられたものです。
ただ、この「端書き」ついては、「日蓮阿闍梨」の記述があり、御真筆が残っていない為、この御書の真偽に疑問を呈する学者もいます。
阿闍梨は、歴史上、日本では、主に天台宗、真言宗において、天皇の関わる特別な儀式において、それを執り行う僧侶に与えられた階位の称号であり、大聖人は、日興上人に白蓮阿闍梨、日昭に弁阿闍梨、日頂に伊予阿闍梨、日向に佐渡阿闍梨といった六老僧や、大進阿闍梨など弟子に対しては、用いられましたが、御自身に対して用いられた例がないからです。
武蔵公御房御書(御書117頁)、行敏御返事(御書472頁)には、他者からの宛名として、大聖人に対して「日蓮阿闍梨」と呼ばれたことがあり、現在では、特に真偽に疑念があるとは、されていません。
この「端書き」に出て来る対告衆の浄円房は、蓮華寺に関係がある僧侶であったと思われます。
これからすると、浄円房は、清澄寺の大聖人の師、道善房と関係が深かったことが考えられ、蓮華寺も、清澄寺の末寺であった可能性があります。
実際に、この清澄寺での講義の折には、怒り狂った地頭の東条景信から逃がれ、一時、ここに、とどまられました。
また、善無畏三蔵抄によると「文永元年十一月十四日西条〔さいじょう〕華房〔はなぶさ〕の僧坊にして見参〔げんざん〕」(御書444頁)とあり、本抄が書かれた文永元年(西暦1264年)の11月14日、小松原の法難のわずか三日後に師の道善房と、ここで会見されています。
その会見で師の道善房に「阿弥陀仏を五体作り給へるは五度無間地獄に堕ち給ふべし」(御書444頁)と述べられています。
もともと清澄寺は、天台宗でしたが、この時代、天台宗は、慈覚、智証などによって、弘法に化〔ば〕かされて密教化し、さらに、法然の専修〔せんじゅ〕念仏が急激に広まっていた為、念仏にも毒されていました。
そういうことで大聖人の師であり、清澄寺の僧でもある道善房も地頭の東条景信、同様の念仏者であったのです。
その清澄寺では、兄弟子の浄顕房や義浄房が大聖人の言葉により弟子となりましたが、蓮華寺の浄円房も大聖人に心を寄せている僧であったかもしれません。
本抄では、まず冒頭で「問うて曰く、当世の念仏者無間地獄と云ふ事、其の故〔ゆえ〕如何。」と疑問を呈され、「答へて云はく、法然の選択〔せんちゃく〕に就〔つ〕いて云ふなり。」と、その元凶が法然の選択集にあることを示されました。
大聖人は、ここで、その選択集の要点として
(第一) 「曇鸞法師〔どんらん・ほっし〕の往生論註によって、難行と易行の二行を立て、法華経を難行と誹謗する」
(第二) 「道綽禅師〔どうしゃく・ぜんし〕の安楽集によって、聖道門と浄土門の名目を立て、法華経を未有一人得者と誹謗する」
(第三) 「善導和尚〔ぜんどう・かしょう〕の五部九巻の書によって、正行〔しょうぎょう〕と雑行〔ぞうぎょう〕の二行を立て、千中無一と法華経を誹謗する」
を挙げられています。
まず、第一の曇鸞法師の往生論註について説明すると、竜樹が十住毘婆沙論〔じゅうじゅう・びばしゃろん〕で難行と易行に分けていることを、曇鸞が、竜樹の真意を曲げて解釈したものなのです。
日寛上人は、撰時抄愚記において、この曇鸞の「本論違背」について、次の三点にわたって糾弾されています。
第一、この本論の意は、通じて仏道に難あり、易あるを明かす。然〔しか〕るに鸞公ば別して無仏五濁の時に訳す。
第二、また本論の意は、歴劫長遠の教を以て難行と為す。故に「久しくして乃ち得べし」「勤行精人」等という。然るに鸞公は此土入聖を難行と為す。
第三、また本論の意は、此土不退に約して易行を明かす。故に「此の身に欲せば」等という。然るに鸞公は、浄土に往生するを易行と為す。
要約すると、
第一に仏教を行じる中で、ある時は、易行を修し、ある時は、難行を修する事を示したもので、決して易行を勧め、難行を止めているのではないのです。
第二に難行道とは、菩薩の為に説かれた歴劫修行に限るのであって、即身成仏の法華経は、含まれないのです。
第三に仏の名号を称〔とな〕える易行は、この娑婆世界において不退の位を得る為であり、もともと浄土に往生する為ではないのです。
これらは、明らかに論理のすりかえであり、曇鸞は、このように、竜樹の十住毘婆沙論を装って、その実は、我見を立てたのです。
日寛上人は、さらに
道綽の聖道門、浄土門の二門は、曇鸞の難行道、易行道を、そのまま受け継いだものであるから、この師の聖道・浄土の二門は、鸞公の難易の二道に異らず。故に選択集に云く「難行・易行、聖道・浄土は其の言は殊なりと雖も、其の意は是れ同じ」等云云。既に「其の意は是れ同じ」という。故にまたその謬りもこれ同じきなり。
と述べられ、その誤りも、曇鸞における難行道と易行道という立て分けに基づいたものであることは明らかなのです。
そこで、道綽の難易の二道について説明すると、安楽集は、道綽が浄土の三部経の一つである観無量寿経を解釈したものです。
その中で、なぜ、「悉有仏性〔しつ・う・ぶっしょう〕」である衆生が、久遠劫より大通智勝如来、釈迦如来などの多くの仏に会っているのに、なぜ、今日まで輪廻〔りんね〕して火宅を出られないのかとの問いに対して、その答えは、「大乗の教えによれば、 二種の優れた法によって生死を払わないからであり、その二種とは、一つには、聖道門、 二つには、往生浄土門であり、その聖道門は、 今の時は、仏果を悟り難い。 一つには、釈尊在世ではなく、 二つには、教理が深く衆生の解釈が浅いからである。大集月蔵経〔だいしゅうがつぞうきょう〕に末法の世には、 一人として悟りを得るものは、ないと説かれている。今は、末法であり、 現に五濁悪世であり、ただ往生浄土の一門だけが、 我らが通入すべき道である」と云うものでした。
やはり、ここでも、成仏への方法を聖道門と浄土門に立て分けた上で大集月蔵経を引き合いに聖道門は、末法に於いては、無益と断じているのです。
しかし、この大集月蔵経には、このような内容の文章はありません。
さらに、ここで述べられている「大乗の教えによれば」の大乗とは、悉有仏性を前提にしている極楽往生の歴劫迂廻の行であり、直達正観、即身成仏を説いている実大乗の法華経や密教などは、含まれないのです。
また、現実に曇鸞、道綽を師とした善導は、正行を念仏、その他の行を雑行とし、千中無一と法華経を誹謗して、悲惨な死に方をしているのです。
観無量寿経に九品の往生を説く中で最低の下品下生の者について「このような愚かな人は、臨終に臨んで、善知識である僧に会い、妙法を聞くことによって、仏を念じることが出来るのである。しかし、下品下生の者は、死の苦しみの中にあって仏を念じる遑〔いとま〕さえなく、僧より、汝、若し彼の仏を念ずること能わずば、まさに帰命無量寿仏と称〔とな〕うべしと真心から声を出すことを勧められると十念を具足して南無阿弥陀仏と称えたのである。すると仏を念じた時のように極楽世界に往生することが出来たのである」とあります。
これを善導は、その著書の観念法門の中で観無量寿経では、十念とあるところを十声と読み変えて、十遍でも念仏を称えた人は、極楽浄土へ往生できると説いたのです。
しかし、この言葉とは、裏腹に、善導だけに限らず、善慧、隆観、聖光、薩生、南無、真光などといった高名な念仏者が悲惨な死に方をしており、その実態は、念仏者は、一人も漏れず往生を遂ぐという極楽往生の姿とは、まったく違ったものなのです。
本抄に引かれている「善慧・隆観・聖光・薩生・南無・真光」について、その臨終がどうであったか、今日では、詳〔つまび〕らかではないのですが、念仏者臨終現悪相御書と呼ばれる断片的に残っている御書に「法然が一類の一向の念仏者法然・隆観・上光・善恵・南無・薩生〔さっしょう〕等或は七日・二七日、無記にて死ぬ者もあり、或は悪瘡〔あくそう〕、或は血をはき、或は遍身にあつきあせをながし、総じて法然が一類八十余人、一人も臨終よきものとてなし。」(御書363頁)とあり、そのことを大聖人は、本抄でも指摘され、念仏無間の実証とされているのです。
それに対して念仏宗の者は、善導の説くところと現実の念仏者の死相が異なるとの批判に対し、声を出さず、ただ意〔こころ〕に仏を念じる「意念往生」、臨終の時に正念を持つ「正念往生」、臨終の時に意識がなくとも、平時の念仏の功徳による「無記往生」、極悪の者が臨終に狂乱しても一声、十声の念仏を称える「狂乱往生」で、いずれも極楽往生しているのであって、仮に臨終に狂乱しても、念仏を称えることによって往生しているのだと弁明しているのです。
それに対し、大聖人は、「まず、この四種往生のうち無記往生が、群疑論と云う人師の説であることに対して、仏説でないものは、信ずるに値〔あたい〕しない」と断じられています。
次に狂乱往生を取り上げられ「観無量寿経にある下品下生の者というのは、僧によって諸法実相を説いてもらっても、十悪、五逆などの苦しみの為に覚れないので、その初門として勧められた念仏を声をあげて称えることを言うのであって、この苦痛に耐えられなくて、正念が行じられない者のことであり、狂乱の者ではない。狂乱の者が十念を唱える道理がなく、もし唱えたら、正念の中に入るはずではないか」と述べられ、善導自身が、この観無量寿経の文を受けて言っているのは「転教口称」ということで「狂乱往生」などとは、言っていないと指摘されています。
このように、日蓮大聖人が指摘されているように、これら、曇鸞、道綽、善導の誤謬〔ごびゅう〕は、個人の地獄の業因とは、成っても、基本的には、仏教上の誤りであって、その根本は、法華経の深意を測りかねていることにあるのです。
つまり、中国浄土宗の三人は、浄土の教えを勧めはしましたが、法然のように「それ以外のものは、捨てよ、閉じよ、閣〔さしお〕け、抛〔なげう〕て」などと言った暴言は、吐かなかったのです。
これらは、いずれも元の経文を見れば分かるように、もともとは、念仏とそれ以外の教えの優劣を立て分けて述べられたものではないのです。
しかし、法然は、ただ言葉だけを持って来て、あたかも念仏とそれ以外の優劣が仏説であるかのように歪曲しているのです。
ところが人間には、言葉のマジックによって、単純にその結論を鵜呑みにする傾向があり、当時の日本国中の人々も、こうした法然の選択集の邪義によって躍らされ、念仏を信じるようになってしまったのです。
また、ここで「法華・真言」と真言も含めて述べらているのは、日本の真言宗のことではなく、法然が「法華・真言」などの名を挙げて捨閉閣抛〔しゃ・へい・かく・ほう〕と説いたことに対して言われたのであり、同時に、ここでは、法然の念仏を破折する為に、あえて法華経の題目を真言と呼ばれたのであり、末法における真の念仏は、正しくは、この末法の御本仏である日蓮大聖人が顕された御本尊を念じることであるのです。
無量義経の未顕真実の文は、本抄で「四十二年の間に説く所の阿含・方等・般若・華厳の名目〔みょうもく〕之を出だせり」(御書317頁)とあるように無量義経の文の中の「四諦」「十二因縁」が小乗教の阿含を示し、「方等十二部経」が方等、「摩訶般若」が般若、「華厳海空」が華厳を指しており、これら小乗教、権大乗教を釈迦牟尼仏自身が、すべて否定されているのです。
しかし、この法然の邪義が、まず仏法に無智な世間の民衆に広まり、それに伴って、ある程度、仏法の知識を持っている智者とおぼしき人々、つまり天台宗などの僧などにも広まり、ついには、天台宗でも真言宗でも法然を讃めるようになってしまったのです。
最後に大聖人は、本抄を結ぶにあたり、仏法を弘める規範である宗教の五綱〔ごこう〕(五義)を挙げられています。
五綱とは、「教」「機」「時」「国」「教法流布の前(先)後」であり、仏法を弘める者は、この五つを必ず心得なければならないとされています。
「教を知る」とは、宗教の教えの正邪、浅深、優劣を判別し、いかなる教が最高の教えであるかを知ることです。
「機を知る」とは、人々がどのような教えを求め、いかなる法によって教化されるべき機根であるかを知ることを言います。
「時を知る」とは、今は、いかなる時であるかを知り、その時に、どのような法を弘めるべきかを知ることです。
「国を知る」とは、国や社会、地域などの環境や条件に応じて弘教の方法を考えていくことです。
「教法流布の前(先)後」は、先に広まった教えより、後に弘める教えが、必ず、高度なもので、なければならないということです。
つまり、「教を知る」とは、法華経こそ、最高の経文であることを知り、その文底に秘沈されたところの日蓮大聖人の三大秘法の仏法こそが最高の教えであることを知ることなのです。
「機を知る」とは、すでに釈迦牟尼仏の法華経が世に広まり、その機根によって、法然の邪義を破折される日蓮大聖人の仏法が理解されることです。
「時を知る」とは、世は、白法隠没、五濁悪世の末法であり、法然が念仏を弘めた後に日蓮大聖人の仏法が広まる時なのです。
「国を知る」とは、この日本国こそ、法然が称〔とな〕えた念仏が元凶の一国謗法の国であり、日蓮大聖人が生まれられて、前代未聞の題目を顕わされるべき国なのです。
「教法流布の前(先)後」とは、法然の念仏が世に広まった後に、より優れた日蓮大聖人の題目が世に流布されるのです。
この規範に照らして、法然の邪義が広まるのは、日蓮大聖人が唱えられる本門の題目が広まる前提であって、その為に大聖人が数々の大難に遭〔あ〕われるのも、仏法上の必然なのです。
そうであってこそ、日蓮大聖人が末法の御本仏であることを証明できるのです。


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