日蓮正宗法華講 開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑚資料


背景と大意 第2章 曇鸞、道綽、善導


中国、浄土宗の祖である曇鸞〔どんらん〕(西暦476年~542年)は、中国・北魏および東魏の僧で、初めは、インドの竜樹〔りゅうじゅ〕の著書である中論、十二門論、大智度論、また、竜樹の弟子、提婆〔だいば〕の著書である百論の四論を学んで、仏性の研究で名声を得ました。
五十歳の頃、大集経〔だいじっきょう〕の注釈を試みましたが、その内容が、あまりに難解で、さらに、その途中で健康を害して、不老不死の仙術を得ようと江南に赴〔おもむ〕き、陶弘景〔とうこうけい〕に仙経を学んで、北へ帰る途中に洛陽で北インド出身の大乗の訳経僧、菩提流支〔ぼだいるし〕に会い、観無量寿経を授かり、それに感銘を受け、浄土教に帰依しました。
十住毘婆沙論〔じゅうじゅう・びばしゃろん〕十七巻は、華厳経の一部、十地経〔じゅうじきょう〕を竜樹が注釈したものですが、インドの僧、仏陀耶舎〔ぶっだやしゃ〕が口述したものを鳩摩羅什〔くまらじゅう〕が漢訳したものと伝えられています。
鳩摩羅什が多分に彼自身の考えや独自の仏教経典の解釈を入れながら、翻訳するので、その注釈された書の内容に両者の対立が起きたとされています。
その内容は、菩薩の修行の位である十地のうち、初地の歓喜地(五十二位の41番目)と二地の離垢地(五十二位の42番目)を解説し、それに注釈を加えたものです。
十住とは、十地と同意で、題名の毘婆沙〔びばしゃ〕は、梵語〔ぼんご〕の音写で「広説・広解」と訳されます。
全体が三十五品から成り、このうち発菩提心〔ほつ・ぼだいしん〕品・第六から阿惟越致相〔あゆいおっち・そう〕品・第八までは、難行道が説かれ、第五巻の易行〔いぎょう〕品・第九に易行道が説かれています。
華厳経では、菩薩の位に(一)十信、(二)十住、(三)十行、(四)十回向、(五)十地の合わせて五十の位と「等覚」の位、「妙覚」の位を合計して五十二位があるとしています。
そこでは、菩薩が(五)の十地の第一である四十一番目の不退地(初地の歓喜地)に至るのに、自ら精進して行く方法を歩行に例えて難行道とし、ただ仏力を信じる道を船に例えて易行道としているのです。
曇鸞は、これを「往生論註二巻」で勝手に解釈し、菩薩が不退を求める修行に難行と易行の二種類があるとし、易行の念仏によってのみ成仏できるとしたのです。
また「往生論註二巻」では、インドの世親(天親)の著作である無量寿経・優婆提舎願生偈〔うばだいしゃがんしょうげ〕を解説し、それに注釈を加え、そこでも易行道を重視し、一切衆生が極楽往生する為には、他力である仏の力に救済を求め、阿弥陀如来の本願によらなければならないとする他力本願を説き、たとえ、まったく仏教と縁がない悪人であっても往生できるとしたのです。
このように曇鸞は、易行道を重んじ、他力本願を説き、「往生論註二巻」「略論安楽浄土義一巻」、「讃阿弥陀仏偈一巻」などを著作しました。
道綽〔どうしゃく〕禅師(西暦562年~645年)は、中国の隋、唐代の僧で、十四歳で出家し涅槃経を学びましたが、山西省の玄中寺で曇鸞の碑文を見て感激し、浄土宗に帰依しました。
曇鸞の説に影響を受け、釈迦の一大聖教を聖道門と浄土門に分け、法華経を含む念仏以外の宗派を聖道門として「未有一人得者」の教えであるとして否定し、ただ念仏である浄土門に帰すべきことを説いています。
著書の「安楽集二巻」は、観無量寿経を解釈して、釈尊の一代聖教を聖道門と浄土門の二門に分け、末法の衆生の機根にかなった教えは、浄土宗であると主張し、ひとえに西方浄土の阿弥陀仏に帰依し、安楽世界に往生することを勧めたものです。
弟子の善導の著書、帖疏〔じょうしょ〕(観無量寿経疏・観経疏)のもととなったものであり、また、法然は、本書をもとにして選択集〔せんちゃくしゅう〕を著しました。
善導〔ぜんどう〕和尚〔かしょう〕(西暦613年~681年)は、中国・初唐の僧で、若くして明勝〔みょうしょう〕法師について出家し、三論〔さんろん〕宗を学び、法華経や維摩〔ゆいま〕経を誦しましたが、経蔵を探って観無量寿経を見て、西方浄土を志〔こころざ〕し、山西省の玄中寺の道綽〔どうしゃく〕を訪ね、弟子となりました。
道綽について浄土宗を学び、その道綽の死後は、長安の光明寺などで称名〔しょうみょう〕念仏を弘教しました。
浄土宗においては、善導が念仏を称〔とな〕えると、念仏一遍ごとに、三体の仏が口から出たなどと伝承されています。
さらに、その修行についても、毎日、阿弥陀経を読誦すること六十回、念仏十万遍を欠かすことなく、諸々の戒を守って一戒も破ることなく、また僧衣を脱がず、鉢を離さず、精進して身心を清浄にし、女人を一生、見ず、三十年の間、眠ることがなかったと讃嘆しています。
さらに、その門弟にも、酒や肉や、また、ニラ、ラッキョウ、ネギ、ニンニク、ショウガの五種を禁じ、手にもしなかったとされ、また、未来の僧侶においても、このように行ずべきであると定め、一度でも、その禁制を破った者は、三百万劫の間、地獄に堕ちると誡めたと言います。
このように善導が定めた行儀は、本来の戒律より厳〔きび〕しいものであり、こうして人々から、生き仏と仰がれ、当時の人々が、皆、念仏者になったのです。
この善導は、観無量寿経疏・正宗分・散善義四巻に「然るに行に二種あり。一には正行〔しょうぎょう〕、二には雑行〔ざつぎょう〕なり」とあるように、仏教の修行を正行と雑行に分け、浄土三部経によって修行するのが正行であるとし、五種の正行以外の諸善を雑行としました。
五種の正行とは、浄土宗の教義で極楽浄土に往生するための五種類の正行のことで、その五種類とは、(一)読誦正行、観経、弥陀経、無量寿経を読誦すること(二)観察正行、一心に阿弥陀仏の国の依正二報の荘厳を思想し観察し憶念すること(三)礼拝正行、専〔もっぱ〕ら一心に阿弥陀仏を礼拝すること(四)称名正行、専ら阿弥陀の名号を称すること(五)讃歎供養正行とは、専ら阿弥陀仏を讃歎、供養することであり、この中で称名正行を第一の正行とし、他の四つをその助行とします。
五種の雑行とは、五種の正行に対応する語で、浄土宗以外のすべての経文の読誦、事理の観行、礼拝、称名、讃歎、供養を雑行として否定しています。
さらには、著書の往生礼讃偈の文で、雑行を捨てて念仏を称える正行の者は「十即十生・百即百生」と十人が十人、百人が百人とも極楽往生できると主張し、それに対して、それ以外の修行を雑行として、それらを修行する者は、「往生を得る者の千中に一も無きなり」と五種の正行以外の教えを修行しても、千人のうち一人も成仏できないとして「千中無一」を主張しています。
これら、正行と雑行、千中無一を主張している九帖の疏〔しょ〕と言われる「観無量寿経疏(玄義分・序分義・定善義・散善義の四帖疏)四巻」と、「法事讃・上下の二巻」、「般舟讃〔はんじゅさん〕一巻」、「往生礼讃偈一巻」、「観念法門一巻」の五部九巻を著しています。
この五部九巻は、善導の教義の中心であり、日本の法然も、この観経疏を見て、専ら浄土宗の一門に帰依したといわれ、日本浄土宗のよりどころとなりました。
つまり、日本の浄土宗の祖である法然も、この善導の不眠三十年などの現実には、有り得ない超人的な伝承にあやかり、自分が信じる以外のすべて経論を否定し、ただ、ひたすらに南無阿弥陀仏と念仏を称〔とな〕える専修〔せんじゅ〕念仏を立てたのです。
日蓮大聖人は、これら浄土宗の曇鸞、道綽、善導の三人を、いずれも釈迦牟尼仏の一代聖教を知らない者たちであると述べられています。(注1)

(注1) 御書289頁 「曇鸞〔どんらん〕・道綽〔どうしゃく〕・善導〔ぜんどう〕・達磨〔だるま〕等の、我が所立の依経〔えきょう〕を一代第一といえるは教をしらざる者なり。」(顕謗法抄)


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