日蓮正宗法華講 開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑚資料


背景と大意 第6章 念仏無間地獄抄 (御書38頁)


建長5年(西暦1253年)4月28日の立教開宗の講義から二年後の建長7年(西暦1255年)に鎌倉の松葉ヶ谷〔まつばがやつ〕の草庵で、当時の民衆に広まっていた法然の専修〔せんじゅ〕念仏を厳〔きび〕しく破析する念仏無間地獄抄(御書38頁)を書き著わされました。
門下に与えられたと思われますが御真筆は、現存せず、詳しいことは、わかっていません。
ただ、大聖人は、立教・開宗の当初から、念仏者が無間地獄に堕ちることを指摘されており、それを、まとめられたのが本抄であると言えます。
まず、日蓮大聖人は、本抄の冒頭で、念仏宗の信仰が無間地獄の業因であるのに対し、法華経こそ成仏・得道の直道〔じきどう〕であることを示され、その根拠として、法華経・譬喩品の「若し人信ぜずして乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」(御書320頁)をあげられています。
これを念仏の門徒は、法華経を信じないだけで、正法を批判していないので、謗法には、あたらないと言い逃れをしていたのです。
それに対して、日蓮大聖人は、念仏宗は、浄土三部経を信じ、法華経を信じずに、また、法華経で成仏するには、機根が必要だなどと誹謗し、これこそ、法華誹謗の姿であることをあげられて、阿鼻地獄は、免〔まぬが〕れないと述べられ、そもそも、法華不信こそ謗法そのものであることを御教示されています。
本来、浄土三部経は、塔を建てる際の足場となる権教であり、それに対して、法華経は、塔、そのものの実教であるのです。
すでに塔である法華経が説かれれば、その機根を整える為に説かれた工事用の足場である浄土三部経は取り除かねばならないのです。
さらに、主師親の三徳を兼備する釈迦牟尼仏を捨てて、阿弥陀如来、薬師如来、大日如来などの権教に説かれた虚構の仏を信じる者は、逆罪によって、悪道に堕ちることは疑いなく、舎利弗や阿難が浄土三部経に縁がありながら、それを捨てて、法華経によって、はじめて成仏した事を挙げられ、彼らを手本とするよう教えられています。
また、念仏の「千中無一」に対し、法華経こそ、すべての衆生が仏道を成就して成仏することができる「皆成仏道」の三世諸仏の本懐であり、法華経の文にも「もし法を聞くことが有る者は、一人として成仏しないということはない」と説かれていると御教示されています。
その「千中無一」の邪義を立てた中国念仏の高祖、善導和尚〔ぜんどう・かしょう〕は、ある日、狂人にでもなったのか「この身は、厭〔いと〕うべきである、諸苦に責められて、暫〔しばら〕くも休む暇がない」と述べて、住んでいる寺の前の柳の木に登り、西に向かい「仏の威神をもって、我を受け取り、観音、勢至菩薩は、来て我を助けたまえ」と唱え、柳の木の上から身を投げたのですが、その縄が切れたのか、柳の枝が折れたのか、堅〔かた〕い土の上に落ちて、腰骨を折り、七日七夜の間、悶絶〔もんぜつ〕して、はいずりまわり、わめき叫んで死んでしまったのです。
このような無残な最期を遂げた現証を以って、これが無間地獄に堕ちた証拠であるとされました。
日蓮大聖人は、新池殿御消息に、現実の主・師・親である釈迦牟尼仏を差し置いて、他人である阿弥陀仏の十万億彼方〔かなた〕の国へ逃げようと願っても、その阿弥陀仏は、主でも師でも親でもなく、阿弥陀仏が絵空事の四十八願を立てているのを愚かな人々は、真実と思って、気が狂ったように金拍子を叩き、踊り跳ねて念仏を称〔とな〕え、親である釈迦牟尼仏の国を嫌っても、迎えに行くと約束した阿弥陀仏は、来るわけがないと仰せに成り、生と死の間の旅の空に迷って「謗法の業にひかれて三悪道と申す獄屋へおもむけば、獄卒阿防羅刹〔あぼう・らせつ〕悦びをなし、とら〔捉〕へから〔搦〕めてさいなむ事限りなし」(御書1364頁)と述べられています。
このように大聖人は、この善導和尚の最期の姿から、これほどの念仏の高祖であっても、往生する人の中に入れなかったものと思われると仰せになって、善導自筆の善導和尚類聚伝〔るいじゅでん〕の文であると述べられています。
もちろん、善導和尚が自分で、自分の臨終の有様を書くわけは、ありませんから、これは、法然が書いた類聚浄土五祖伝〔るいじゅ・じょうど・ごそでん〕のことと考えられます。
さらに善導和尚を師として、浄土門が正しいとするのであれば、念仏者として、善導和尚と同じように首を括〔くく〕るのかと念仏者を厳しく責められています。
上野殿御返事には、「善導と申す愚癡の法師がひろ〔弘〕めはじめて自害をして候ゆへに、念仏をよくよく申せば自害の心出来し候ぞ。」(御書746頁)と述べられており、念仏を称〔とな〕える者は、知らないうちに、この世を厭〔いと〕い自殺に誘因される心が出て来ると述べられています。
このように法然などによる法華・誹謗の謗法は、法然自らが地獄へ堕ちるだけでなく、その念仏を信じる門徒さえも、一切世間の仏種を断じて無間地獄へと導くことになるのです。
以前、新興宗教の創価学会では「師が地獄に行くのであれば、弟子も地獄に付いて行くのだ」などと指導していたようですが、これは、浄土真宗の親鸞が、「歎異抄〔たんにしょう〕」において、「たとい法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候」と述べたものと、まったく同じ師弟観では、ないでしょうか。
まさに法然の邪義を信じて念仏を称〔とな〕え、相次ぐ大地震、疫病、飢饉に苦しみ、地獄の様相となった鎌倉時代の人々こそ、念仏無間の姿そのものだったのです。
このように念仏を称〔とな〕えて、法然の弟子、門徒が虚無的になり、さらに死を礼賛〔らいさん〕し、踊り狂っていく姿に当時の朝廷や幕府も危険を感じて、仏法を破壊し、民衆を洗脳する新興宗教の念仏を禁止する宣旨が何度も出されたことを例示され、このように正法・誹謗の書である選択集を著わした法然は、仏勅により墓を暴かれ、その弟子は、勅命により死罪、流罪となり、これが念仏・無間の現証であることを指摘されて本抄を終わられています。

(1) 太政官の藤原頼隆から比叡山・天台座主・円基への宣旨 (御書43頁)
「嘉禄三年七月五日に山門に下されし宣旨〔せんじ〕に云はく、(中略)者〔ていれば〕綸言〔りんげん〕此くの如し。頼隆〔よりたか〕誠恐頓首謹言。」
「七月五日酉刻」「右中弁〔うちゅうべん〕頼隆 奉〔うけたまわ〕る」
「進上天台座主大僧正御房 (政所〔まんどころ〕)」

【山門〔さんもん〕】
園城(三井)寺を「寺門」と呼ぶのに対し、比叡山・延暦寺を「山門」と呼ぶ。

【宣旨〔せんじ〕】
詔〔みことのり〕。天皇の言葉。また、それを伝える文書。

【右中弁〔うちゅうべん〕】
太政官の判官である右弁官の官職の一つ。
兵部・刑部・大蔵・宮内の四省を掌握する右弁官には、右大弁・右中弁・右少弁があった。
位は正五位上。権弁は、権右中弁のことで右中弁の権官をいう。
正四位下行右中弁とは、正四位は官位であり、右中弁は、太政官の判官にあたる官職で正五位の位に相当した。
自分の官位よりも下位に相当する職についた場合、官位と官職の間に「行」という文字を記入した。

【頼隆〔よりたか〕】 
藤原頼隆〔ふじわらのよりたか〕鎌倉時代初期の人で前中納言藤原顕俊〔ふじわらのあきとし〕の子。嘉禄元年(西暦1225年)に右中弁になった。

【天台座主大僧正御房政所】
比叡山・延暦寺を統括する天台座主が所轄の事務所のこと。大僧正は、僧侶の最高位。この時の天台座主は、第七十三代の円基。

(2) 太政官の藤原頼隆から比叡山・天台座主・円基への宣旨 (御書44頁)
「専修念仏興行の輩停止すべきの由、(中略)之を悉〔つまびらか〕にせよ。頼隆誠恐頓首謹言。」
「七月十三日」「右中弁頼隆 奉る」
「進上天台座主大僧正御房(政所)」

(3) 太政官・平範輔から執権・北条武蔵守泰時への御教書 (御書44頁)
「殿下御教書(中略)仍って執達件〔くだん〕の如し。」
「嘉禄三年十月十日」「参議範輔〔のりすけ〕 在判」
「武蔵守殿」

【殿下】
摂政、関白、将軍の敬称。

【御教書〔みぎょうしょ〕】
平安時代の頃から始まった三位〔さんみ〕以上の公卿〔くぎょう〕が出す公式文書のこと。また、公卿の家司が主人の命を受けて奉書形式で出す書状。
鎌倉幕府、室町幕府には、この形式が取り入れられて、執権・管領などが将軍の命を受けて出す形式をとった。執権状ともいう。
行政が出す公文書がこれにあたる。

【参議〔さんぎ〕】
国家に関する議事に参与する意。令外官〔りょうげのかん〕の一つ。大納言・中納言に次ぐ重職。
弘仁元年(西暦810年)以後、定員が八人になったことから八座ともいった。

【範輔〔のりすけ〕】
(西暦1192年~1235年)。平範輔〔たいらののりすけ〕のこと。鎌倉時代の公卿で、建久3年の生まれ。平親輔〔たいらのちかすけ〕の子。
嘉禄元年(西暦1225年)に右大弁となるなどして、蔵人頭〔くろうどのとう〕、右大弁などを歴任して、翌2年(西暦1226年)参議に任じられた。
寛喜4年に正三位となり、寛喜3年(西暦1231年)左大弁に転じ、文暦元年(西暦1234年)に権中納言となった。
文暦2年7月25日に44歳で死去。

【武蔵守〔むさしのかみ〕】
武蔵国(神奈川県の一部と東京都と埼玉県)の国司のこと。鎌倉時代においては、幕府の重臣が就任した。
ここでは、執権であった北条泰時〔やすとき〕をさす。

(4) 延暦寺の学僧・永尊竪者の書状 (御書44頁)
「永尊〔ようそん〕竪者〔りっしゃ〕の状に云はく、(中略)法然上人の墓所をば(中略)破却せしめ畢んぬ。」

【永尊竪者〔ようそん・りっしゃ〕】
永尊は「えいそん」とも読む。生没年不明。鎌倉時代の天台宗の学僧。
延暦寺の宝地房に住し、後に僧都となり題者(公開討論の時に題を出して問答の可否の判定を下す役)となった。
「竪者〔りっしゃ〕」とは、比叡山・延暦寺や奈良の興福寺などの大寺院で行われる経典の論義の席上,問者の反論に解答する役目の僧のこと。

(5) 隆真法橋の言上 (御書45頁)
「嘉禄三年十月十五日、隆真〔りゅうしん〕法橋〔ほうきょう〕申して云はく、(中略)文理之有りと。」

【隆真法橋〔りゅうしん・ほうきょう〕】
生没年不明。鎌倉時代の天台宗の僧。
比叡山・延暦寺・東搭〔とうどう〕に住み、山門の論議の時に論題を定める役目の探題であった。
宝地房・証真〔ほうちぼう・しょうしん〕の弟子で、専修念仏を排斥し、定照〔じょうしょう〕の著に、隆真が奥書を加えたと伝えられる弾選択〔だんせんじゃく〕で選択〔せんちゃく〕集を批判した。 法然の弟子・隆寛〔りゅうかん〕が「顕選択」をあらわして、これに反論すると比叡山の衆徒らと専修念仏の停止を朝廷に訴え隆寛らは、流罪となった。
通称は、並榎竪者〔なみえのりっしゃ〕という。法橋は、僧位の一つで、「法橋上人位」の略称。

(6) 比叡山・延暦寺より雲居寺への書状 (御書45頁)
「山門より雲居寺〔うんごじ〕に送る状に云はく、(中略)殆ど此の現罰を以て其の後報を察すべし云々。」

【雲居寺〔うんごじ〕】
京都市東山区の現在の高台寺附近にあった天台宗の寺院。


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