日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑽資料


当世念仏者無間地獄事 第2章 念仏者の反論の根拠


【念仏者救ふて云はく、】
念仏者は、自らの教えを正当化して、このように言い訳をしています。

【念仏者救ふて云はく、汝は法然上人の捨閉閣抛の四字を】
なぜ、あなたは、法然上人の「捨閉閣抛〔しゃ・へい・かく・ほう〕」の四文字を

【謗法と過〔とが〕むるか。】
謗法と決めつけて、過〔とが〕めるのですか。

【汝が小智の及ばざる所なり。】
それは、あなたの浅い智慧が、法然上人の智慧に及ばないだけのことであり、

【故に上人此の四字を私に之を書くと思へるか。】
なに故に上人が、この四字を自分だけの考えで書いたと思うのでしょうか。

【源〔もと〕曇鸞〔どんらん〕・道綽〔どうしゃく〕・善導〔ぜんどう〕の】
もとは、曇鸞〔どんらん〕、道綽〔どうしゃく〕、善導〔ぜんどう〕の

【三師の釈より之を出だしたり。】
三師の説明を源〔みなもと〕として、これを取り出したのです。

【三師の釈も又私に非ず。源〔もと〕浄土三部経、竜樹菩薩の】
三師の説明も、また、勝手な義によるものではなく、浄土三部経、竜樹菩薩の

【十住〔じゅうじゅう〕毘婆沙論〔びばしゃろん〕より出ず。】
十住毘婆沙論〔じゅうじゅう・びばしゃろん〕をもとに出したものなのです。

【双観経〔そうかんぎょう〕の上巻に云はく】
無量寿経(双観経〔そうかんぎょう〕)、上下二巻の上巻に

【「設〔たと〕ひ我仏を得んに乃至十念」等云云。第十九の願に云はく】
「たとえ、我、仏を得んに乃至十念せん」などとあり、第十九の願には、

【「設ひ我仏を得んに諸の功徳を修め菩提心を発こす」等云云。】
「たとえ、我、仏を得たらんに諸の功徳を修し菩提心を発こす」などとあります。

【下巻に云はく「乃至一念」等云云。第十八の願成就の文なり。】
無量寿経の下巻には「乃至一念」とあり、これは「第十八願成就」の文なのです。

【又下巻に云はく「其の上輩者、一向専念。其の中輩者、】
また、同じく下巻に「その上輩の者は(略)一向に専念し、(略)其の中輩の者は

【一向専念。其の下輩者、一向専念」云云。】
(略)一向に専念し、(略)其の下輩の者は(略)一向に専念し」とあります。

【此は十九の願成就の文なり。観無量寿経に云はく】
これは「十九願成就」の文なのです。観無量寿経に

【「仏阿難に告げたまはく、汝好〔よ〕く是の語を持〔たも〕て、】
「仏、阿難に告ぐ、汝、よく、この語を持〔たも〕て。

【是の語を持つ者は即ち是無量寿仏の名を持つ」等云云。】
この語を持〔たも〕つとは、即ち、これ無量寿仏の名を持〔たも〕つ」とあり、

【阿弥陀経に云はく「小善根を以てすべからず乃至一日七日」等云云。】
阿弥陀経には「小善根を以てすべからず、乃至、一日、七日等」とあります。

【先〔ま〕ず双観経の意は念仏往生・諸行往生と説けども】
まず無量寿経の趣意では「念仏往生」と「諸経往生」の二つを説いていますが、

【一向専念と云ひて諸行往生を捨て了〔おわ〕んぬ。】
一向専念といって「諸経往生」を捨てているのです。

【故に弥勒〔みろく〕の付嘱には一向に念仏を付嘱し了んぬ。】
それ故に弥勒〔みろく〕菩薩に対しては、一向に念仏のみを付嘱しているのです。

【観無量寿経の十六観も、上の十五の観は諸行往生、】
観無量寿経で説く十六観も、十五観までは、「諸経往生」ですが、

【下輩の一観の三品は念仏往生なり。】
下輩の一観の三品は「念仏往生」なのです。

【仏阿難尊者に念仏を付嘱するは諸行を捨つる意なり。】
仏が阿難尊者に念仏を付嘱したのは、諸経を捨てよとの意味なのです。

【阿弥陀経には双観経の諸行】
阿弥陀経には、無量寿経で述べた諸経での往生、

【観無量寿経の前十五観を束〔つか〕ねて小善根と名づけ】
観無量寿経で述べた前十五観の修行を束〔たば〕ねて小善根と名づけ、

【往生を得ざるの法と定め畢〔おわ〕んぬ。】
往生ができない法と定めているのです。

【双観経には念仏をば無上功徳と名づけて弥勒に付嘱し、】
無量寿経では、念仏を無上功徳と名付けて弥勒〔みろく〕菩薩に付嘱し、

【観経には念仏をば芬陀利華〔ふんだりけ〕と名づけて阿難に付嘱し、】
観経では、念仏を芬陀利華〔ふんだりけ〕と名付けて阿難〔あなん〕尊者に付嘱し、

【阿弥陀経には念仏をば大善根と名づけて舎利弗に付嘱す。】
阿弥陀経の念仏を大善根と名付けて舎利弗に付嘱したのです。

【終はりの付嘱は一経の肝心を付嘱するなり。又一経の名を付嘱するなり。】
最後の付嘱では、一経の肝心を付嘱し、また一経の名を付嘱しています。

【三部経には諸の善根多しと雖も其の中に念仏最〔もっと〕もなり。】
浄土三部経には、善根も多くありますが、その中で念仏が最上としており、

【故に題目には無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経等と云へり。】
それ故に題目も無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経と名付けているのです。

【釈摩訶衍論〔しゃくまかえんろん〕・法華論等の論を以て】
竜樹の釈摩訶衍論〔しゃく・まか・えんろん〕や天親の法華論などの論から、

【之を勘〔かんが〕ふるに一切経の初めには必ず南無の二字有り。】
これを考えると一切経の初めには、必ず南無の二字があり、

【梵本〔ぼんぽん〕を以て之を言はゞ三部経の題目には南無之有り。】
梵語〔ぼんご〕の原本からいえば、浄土三部経の題目には、皆、南無とあります。

【双観経の修諸〔しゅしょ〕の二字に念仏より外の】
無量寿経にある「諸の功徳を修め」の「修諸」の二字には、念仏以外の

【八万聖教残るべからず。】
すべての教え、八万の聖教が残らず収められており、

【観無量寿経の三福九品等の読誦大乗の一句に】
観無量寿経の三福九品などの説にある読誦大乗の一句には、

【一切経残るべからず。阿弥陀経の念仏の大善根に対する】
一切経が残らず収まっています。阿弥陀経にある念仏の大善根に対する

【小善根の語に法華経等漏るべきや。】
小善根の語には、法華経などが漏れることなく入っているのです。

【総じて浄土の三部経の意は行者の意楽〔いぎょう〕に随はんが為に】
総じて浄土三部経の趣意は、行者の願いに従〔したが〕う為に、

【暫〔しばら〕く諸行を挙〔あ〕ぐと雖も、再び念仏に対する時は】
念仏以外の諸経を挙げていますが、最終的には、念仏と相対した時は、

【諸行の門を閉ぢて捨閉閣抛する事顕然〔けんねん〕なり。】
諸経、諸宗派を否定して「捨閉閣抛」していることが明らかなのです。

【例せば法華経を説かんが為に無量義経を説くの時、】
例えば、法華経を説く為に無量義経を説いた時には、

【四十余年の経を捨てゝ法華の門を開くが如し。】
四十余年の経々を捨てて、法華経の門を開いたようなものなのです。

【竜樹菩薩十住毘婆沙論を造りて一代聖教を難易の二道に分かてり。】
竜樹菩薩は、十住毘婆沙論を造って、一代聖教を難行と易行の二つの道に分け、

【難行道とは三部経の外の諸行なり。】
難行道とは、浄土三部経の以外の宗派であり、

【易行道とは念仏なり。】
易行道とは、念仏であるとしています。

【経論此くの如く分明なりと雖も震旦〔しんだん〕の人師此の義を知らず。】
経論では、このように明確であるのに中国の人師たちは、この義を知らず、

【唯善導一師のみ此の義を発得〔ほっとく〕せり。】
ただ善導和尚〔ぜんどう・かしょう〕一人だけが、この義を悟ったのです。

【所以〔ゆえ〕に双観経の三輩を観念法門に書いて云はく】
それ故に無量寿経の上輩、中輩、下輩の三輩について、観念法門には、

【「一切衆生の根性〔こんじょう〕不同にして上中下有り。其の根性に随って】
「一切衆生の根性は、不同にして上中下、有り。その根性に従〔したが〕って、

【仏皆無量寿仏の名を専念することを勧む」等云云。】
仏、皆、無量寿仏の名を専念することを勧めたもう」とあります。

【此の文の意は発菩提心〔ほつぼだいしん〕・修諸功徳等の】
この文の趣意は「菩提心を発して諸の功徳を修めよ」などと

【諸行は他力本願の念仏に値はざりし以前に修する事よと有りけるを、】
諸経の修行を説いていても、他力本願の念仏に会う前の修行であり、

【忽〔たちま〕ちに之を捨てよと云ふとも行者用ふべからず、】
「すぐに諸経の修行を捨てよ」と言っても、修行者は、用〔もち〕いないので、

【故に暫く諸行を許すなり。実には念仏を離れて】
しばらくの間、この諸経の修行を許しただけなのです。真実は、念仏を離れて

【諸行を以て往生を遂ぐる者之無しと書きしなり。】
諸経で往生を遂げる者は、いないと書いたものなのです。

【観無量寿経の「仏告〔ぶつごう〕阿難〔あなん〕」等の文を】
観無量寿経の「仏告〔ぶつごう〕阿難〔あなん〕」などの文について、

【善導の疏〔しょ〕の四に之を受けて曰く】
善導和尚は、観無量寿経疏〔しょ〕の四に、これを受けて

【「上来〔じょうらい〕定散〔じょうさん〕両門を説くと雖も仏の本願に望むれば】
「本来、定善と散善の法門を説くと雖も、仏の本願に望めば、

【意衆生の一向に専〔もっぱ〕ら弥陀仏の名を称するに在り」云云。】
意衆生をして一向に専ら阿弥陀の名を称するに在り」と言っております。

【定散とは八万の権実顕密の諸経を尽くして】
定善、散善とは、八万法蔵の権教、実教、顕教、密教の諸経のすべてを

【之を摂して念仏に対して之を捨つるなり。】
説明したもので、念仏に対して、これらの諸経を捨てよと言っているのです。

【善導の法事讃〔ほうじさん〕に阿弥陀経の大小善根の故を釈して云はく】
善導和尚の法事讃〔ほうじさん〕には、阿弥陀経の大小の善根のことを説明して、

【「極楽は無為涅槃界なり。随縁の雑善〔ぞうぜん〕恐らくは生じ難し。】
「極楽は、無為涅槃界なり。随縁の雑善〔ぞうぜん〕、恐らくは、生じ難し。

【故に如来要法を選んで教へて弥陀専修を念ぜしむ」等云云。】
故に如来要法を選んで、教えて弥陀専修を念ぜしむ」などとあります。

【諸師の中に三部経の意を得たる人は但〔ただ〕導一人のみなり。】
諸師の中で浄土三部経の本意を得た人は、ただ、善導和尚一人なのです。

【如来の三部経に於ては是くの如く有れども正法・像法の時は】
如来の浄土三部経においては、このようにあるのですが、正法、像法の時代には、

【根機猶〔なお〕利根の故に諸行往生の機も之有りけるか。】
能力も理解力もあったので、諸経による往生もあったのでしょう。

【然るに機根衰へて末法と成る間、】
しかし、衆生の理解力が衰〔おとろ〕えた末法となったので、

【諸行の機漸〔ようや〕く失〔う〕せ念仏の機と成れり。】
諸経による往生も徐々になくなり、念仏による往生のみとなったのです。

【更に阿弥陀如来は善導和尚と生まれて震旦に】
さらに阿弥陀如来は、善導和尚となって生まれ変わり、中国において、

【此の義を顕はす。】
この義を顕〔あらわ〕したのです。

【和尚日本に生まれて初めは叡山に入って修行し、後には】
法然房・源空は、日本に生まれて、初めは、比叡山に入って修行をし、後には、

【叡山を出でて一向に専修念仏して三部経の意を顕はし給ひしなり。】
比叡山を出て、一向に専修念仏を行い、浄土三部経の本意を顕わしたのです。

【汝〔なんじ〕捨閉閣抛の四字を謗法と過〔とが〕むること】
あなたは、「捨閉閣抛〔しゃ・へい・かく・ほう〕」を謗法だと詰問していますが、

【未だ導和尚の釈並びに三部経の文を窺〔うかが〕はざるか。】
それは、未だ善導和尚の説明や浄土三部経の文を知らないからでしょう。

【狗〔いぬ〕の雷〔いかずち〕を齧〔か〕むが如く地獄の業を増す。】
これは、犬が雷を噛〔か〕むようなものであり、地獄の業を増すのです。

【汝知らずんば浄土家の智者に問へ。】
あなたが分からないのであれば、浄土家の智者に問えばよいだけのことなのです。



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