日蓮正宗法華講 開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑚資料


背景と大意 第4章 一切世間の仏種を断ぜん


法華経・第二巻の譬喩品〔ひゆほん〕の文を上げると「また舎利弗〔しゃりほつ〕、憍慢〔きょうまん〕懈怠〔けだい〕我見〔がけん〕を計〔け〕する者には、この経を説くこと莫〔なか〕れ。凡夫〔ぼんぶ〕の浅識〔せんしき〕深く五欲に著〔じゃく〕せるは、聞くとも解〔げ〕すること能〔あた〕わじ。また、為に説くこと勿〔なか〕れ。もし人、信ぜずして、この経を毀謗〔きほう〕せば、則〔すなわ〕ち一切世間の佛種〔ぶっしゅ〕を断ぜん。あるいは、復〔また〕嚬蹙〔ひんじゅく〕して疑惑〔ぎわく〕を懐かん。汝〔なんじ〕當〔まさ〕に、この人の罪報〔ざいほう〕を説くを聴くべし。もしは佛〔ほとけ〕の在世、もしは、滅度〔めつど〕の後〔のち〕に、それ斯〔かく〕の如き経典〔きょうでん〕を誹謗〔ひほう〕すること有らん、経を読誦し書持〔しょじ〕すること有らん者を見て、輕賤〔きょうせん〕憎嫉〔ぞうしつ〕して、しかも結恨〔けっこん〕を懐〔いだ〕かん。この人の罪報を汝〔なんじ〕今復〔また〕聴け。その人命終〔みょうじゅう〕して阿鼻獄〔あびごく〕に入〔い〕らん。一劫を具足〔ぐそく〕して劫〔こう〕尽〔つ〕きなば、また生〔うま〕れん。かくの如く展転〔てんでん〕して無数劫〔むしゅこう〕に至〔いた〕らん」と説かれています。
この要旨を述べると、二乗の舎利弗に対して、憍慢〔きょうまん〕、懈怠〔けだい〕、我見〔がけん〕の者には、この経を説いては、ならないとあります。
この憍慢とは、自らを優れていると思い、他人を見下し、驕〔おご〕り高ぶることで、懈怠とは、物事を正していく気持ちがなく、悪を悪とも思わないことで、我見とは、自分だけの狭い考えで、独りよがりの偏〔かたよ〕った意見のことであり、そのような人は、知識が浅く、欲望が強く、この経の内容が理解できないので意味なく説いては、ならないというのです。
さらに、もし、この人が信じないで、この経を誹謗すれば、それは、そのまま一切世間の仏種を断じてしまうことに他ならず、顔をしかめ、疑惑を懐くだけなのです。
そのような人は、仏の在世や滅後において、この経典を誹謗し、この経を読誦し書持する者を見て、軽蔑し、憎悪して、恨みを懐くのです。
また、そのような人は、命が終って阿鼻地獄に入り、一劫を過ぎて劫が尽きたならば、また生れ、このように展転して無数劫に至るのです。
このように譬喩品の文を見れば、釈迦牟尼仏が説いた法華経を信じない者は、成仏する因(種)を、すべて断じて無間地獄に堕ちると明白に書かれているのです。
また、同じ譬喩品の最後には、「舎利弗〔しゃりほつ〕に告〔つ〕ぐ。我、この相にして仏道を求むる者を説かんに、劫〔こう〕を窮〔きわ〕むとも尽〔つ〕きじ。是〔かく〕の如き等〔ら〕の人は、則〔すなわ〕ち能く信解せん。汝〔なんじ〕當〔まさ〕に為〔ため〕に妙法華經〔みょうほけきょう〕を説くべし」と説かれています。
この要旨を述べると、妙法の舎利弗に対して、このような姿の仏道を求むる者のことを説こうと思っても、それは、劫と云う長い時間があったとしても無理なのです。
このような人は、すぐに信じ理解できるのです。
まさに、この人の為に妙法華経を説くべきであるとあります。
念仏者は、そもそも、この譬喩品には、浅識の凡夫が、この法華経を聞いても、理解できないので、この法華経は、説いては、ならないと書いてあると主張して、我々、念仏者は、法華を誹謗しているわけではなく、とても、我々、浅識の凡夫が法華で往生できるとは、思えないので阿弥陀仏の本願を頼りに念仏を称えているだけであると反論しています。
しかし、この譬喩品の文を、よく読んでみると、そもそも、法華経を誹謗し、それを読誦し書持する者を軽蔑し、憎悪して、恨みを懐くのは、法華経が説かれているのに信じない者の罪の報いなのであって、必ずしも、法華経を説かれ、理解できなかったからではないのです。
また、法華経を説いては、いけないと言っても、法華経の経文の内容を理解できないからではなくて、経文の内容を間違って理解するからなのです。
まさに念仏者が機根に合わずと言って法華経の題目を唱えない姿こそ、法華経の経文を間違って理解している姿であって、すでに法華経が説かれているのに信じていない証拠なのです。
問題は「説くべきなのか、説くべきでないのか」ではなく、「阿弥陀仏なのか釈迦牟尼仏なのか」、「浄土三部経なのか法華経なのか」、「念仏を称〔とな〕えるのか題目を唱〔とな〕えるのか」なのです。
まして、譬喩品の最後には、「汝〔なんじ〕當〔まさ〕に為〔ため〕に妙法華經〔みょうほけきょう〕を説くべし」とあるのです。
どうして、信じないと決めつけて説かないことがあるでしょうか。
まして、法然が依経とする浄土三部経つまり無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経を説かれたのは、現実の釈迦牟尼仏であり、我ら娑婆世界の衆生にとって主親師の三徳を兼ね供えた唯一の仏なのです。
架空の西方浄土の仏である阿弥陀仏を信じて、釈迦牟尼仏の出生の本懐である法華経を蔑〔ないがし〕ろにすることは、まさに仏教に対する師敵対の姿ではないでしょうか。
また、この浄土三部経は、すべて権教であり、実教である法華経が説かれる前の方便なのです。
法華経の開経である無量義経には「四十余年には、未だ真実を顕〔あらわ〕さず」と説かれており、法華経には「正直に方便を捨てて、ただ無上道を説く」と述べられて、方便・権教の浄土三部経を捨てられているのです。
つまり、法華経は、塔であり、浄土三部経を含む権教は、すべて塔を作る為の足代(足場)なのです。
実教である塔が立てば、足代である権教は、すべて取り除かれるべきであり、そのままにしておいて良いはずがありません。
むしろ、塔にとっては、邪魔な存在なのです。
法然は、選択〔せんちゃく〕集に於いて、その邪魔な存在である方便・権教の浄土三部経を依経とし、それ以外の法華経を含む釈迦牟尼仏の一代聖経を「捨閉閣抛〔しゃ・へい・かく・ほう〕」、つまり、「捨〔す〕てよ、閉〔と〕じよ、閣〔さしお〕け、抛〔なげう〕て」と謗〔そし〕り、「称名念仏以外の修行をすべてやめよ」などと暴論を主張したのです。
これでは「法華経を説く、説かない」の問題ではなく、まさに法華・誹謗の張本人は、法然であると断罪されても仕方がない状態なのです。
また、法華経を信じずに法然を信じる念仏者も、まさに与同罪は、まぬがれられないのです。
さらに、当時の念仏者は、地頭の東条景信を始め、佐渡の阿仏房、印性房など、自ら、日蓮大聖人に講義を望み、法論を挑んだのであって、その結果、議論に負けたことを以って、敵対し、また信者となったのです。
つまりは、機根がないから、法華経を信じないというのは、単なる言い訳であって、自らが信じる念仏に、ただ感情のみで執着して、正しいと言い張っているに過ぎないのです。
これこそ、譬喩品で述べられている「入阿鼻獄」のほんとうの姿なのです。
「一切衆生・皆成仏道」「平等大慧」「皆是真実」(注3)である法華経を聴聞することが、そのまま即身成仏の種となり、因となるのであって、それを説くことが、相手に対する最大の尊敬を顕わす姿となるのです。

(注1) 御書619頁 「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ず、乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」(四条金吾殿御返事)

(注2) 御書672頁 「若人不信毀謗〔きぼう〕此経、即断一切世間仏種、乃至其人命終入阿鼻獄」(如説修行抄)

(注3) 御書41頁 「夫〔それ〕一切衆生皆成仏道の法華経、一聞法華経決定成菩提の妙典、善導が一言に破れて千中無一虚妄〔こもう〕の法と成り、無得道教と云はれ、平等大慧の巨益〔こやく〕は虚妄と成り、多宝如来の皆是真実の証明の御言〔みことば〕妄語と成るか。」(念仏無間地獄抄)


ページのトップへ戻る