御書研鑚の集い 御書研鑚資料
背景と大意 第10章 念仏無間地獄事 (御書319頁)
念仏無間地獄事(御書319頁)は、文永元年(西暦1264年)九月、大聖人が四十三歳の時に安房(千葉県)において認〔したた〕められ、門下一般に与えられた御書です。
御真筆は、現存しませんが、写本の三宝寺本、本満寺本が伝えられています。
以前、本抄は、「六郎恒長〔つねなが〕御消息」とされていましたが、これは、「恒長」を波木井実長〔はきい・さねなが〕の誤写とみなしたり、また、六郎恒長を波木井実長の子とする説によるものです。
しかし、波木井実長の入信は、本抄が顕わされる五年後の文永六年頃と考えられることや、本文のどこにも六郎恒長の消息とする内容が見られないことから、「平成新編御書」においては、題名を、その内容から「念仏無間地獄事」とされています。
本抄では、冒頭に「念仏を無間地獄と云ふ義に二有り」(御書319頁)と述べられ、念仏を無間地獄とする意味に二つの理由があることを説明されています。
第一に日本の念仏宗の祖である法然が著わした「選択集〔せんちゃくしゅう〕」には、浄土三部経を除いて、それ以外の一代聖教を「捨てよ」「閉じよ」「閣〔さしお〕け」「拠〔なげう〕て」と言って「捨閉閣抛〔しゃ・へい・かく・ほう〕」を主張していますが、浄土三部経の双観経〔そうかんぎょう〕(無量寿経)には、阿弥陀仏が法蔵比丘として修行をしていたときに「どのような極悪人でも絶対に救う」と立てた第十八願には「唯〔ただ〕五逆と誹謗正法とを除く」と説かれており、これによって法華経の門を閉じよと正法を誹謗した法然自身も、この第十八願から漏れてしまうことになるのです。
また、それを信じる、弟子、檀那も、師の法然と同じように「誹謗正法の者」となり、第十八願から除かれるのです。
第二に法華経の序分である無量義経には「四十余年未顕真実」と説かれています。
釈迦牟尼仏が仏に成った時から、四十余年の経文の中に「華厳経、阿含経、方等経、般若経」の四部がありますが、念仏者が信用する浄土三部経は、そのうちの方等部にあたり、「無量義経」では、これらを「未だ真実を顕わしていない」と説かれているのです。
さらに法華経・方便品に「当〔まさ〕に真実を説く」とあるのは、「南無妙法蓮華経を真実と申す文なり。」(御書320頁)と述べられ、仏が、これを胸に秘めて説かなかったならば、仏そのものが慳貪〔けんどん〕の罪で三悪道〔さんなくどう〕に堕ちてしまうと述べられています。
そして法華経・譬喩品の「今此〔こんし〕三界〔さんがい〕」「其中〔ごちゅう〕衆生〔しゅじょう〕悉是吾子〔しつぜごし〕」(御書320頁)の「今、この三界は、皆、これ我が有であり、その中の衆生は、ことごとく吾〔わ〕が子である」の文を挙げられて、日本国は、その中の領土も民衆も神社の神々でさえ、すべて教主・釈尊を仏とする国であって、まったく阿弥陀仏を仏とは、しないのであると明かされ、本抄を結ばれています。
しかしながら、所詮、釈迦牟尼仏と言っても阿弥陀仏と言っても法華経・第三巻の化城喩品では、三千塵点劫〔じんでんごう〕の過去においては、菩薩であり、大通智勝仏の十六人の王子のひとりに過ぎません。
その王子の9番目が西方極楽世界の阿弥陀仏であり、16番目が娑婆世界の釈迦牟尼仏なのです。
それらの王子が、それぞれ、父である大通智勝仏が説いた法華経を繰り返し説き(大通覆講)、仏となる種を下ろし(大通下種)、聴衆の人々との縁を結んで(大通結縁)いるのです。
そして、それぞれの国土に法華経を説いた王子と、その説法を聞いた人々は、生まれあわせ(在在諸仏土・常与師俱生)、その世界で、この大通覆講で説いた法華経を因として王子は、仏となり、このときに大通下種した大通結縁の人々に、ふたたび法華経を説いて、そのすべてを成仏させたのです。
また、法華経の如来寿量品では、三千塵点劫より、さらに久遠の過去の五百億塵点劫において、釈迦牟尼仏が娑婆世界(本国土妙)において菩薩道(本因妙)を行じて成仏(本果妙)したことが、説かれています。
しかし、ここでは、どの仏に依って法華経を説かれたのかがわかりません。
つまり、本因妙の教主がいるはずなのです。
この本因妙の教主こそ、五百億塵点劫の当初〔そのかみ〕久遠元初の自受用報身〔じじゅゆう・ほうしん〕如来、日蓮大聖人のことなのです。
また「此の曼茶羅能く能く信じさせ給ふべし。南無妙法蓮華経は師子吼〔く〕の如し。(中略)日蓮がたましひ〔魂〕をすみ〔墨〕にそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意〔みこころ〕は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。」(御書685頁)、「所謂日蓮建立の御本尊、南無妙法蓮華経是なり云云。」(御書1841頁)と述べられている通り、人本尊〔にい・ほんぞん〕である日蓮大聖人は、法本尊〔ほう・ほんぞん〕である「南無妙法蓮華経」と一体無二のものであって、別々のものではないのです。
従って、久遠元初とは、常住ということであり、最初から最後まで存在するということであって、鎌倉時代に末法の御本仏として日蓮大聖人が生きておられた時も、また、現在、三大秘法の大御本尊として大石寺に御安置されている時も、さらには、三千塵点劫、五百億塵点劫の時においても、また、さらには、五百億塵点劫の当初〔そのかみ〕においても、常に日蓮大聖人は、自受用身の仏として、また、三大秘法の本尊として、この世界に居られるのです。
それ故に本抄において「南無妙法蓮華経を真実と申す文なり。」(御書320頁)と仰せになっているのです。
つまりは、阿弥陀仏、釈迦牟尼仏など、いかなる三世諸仏も日蓮大聖人が建立されたところの三大秘法の御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えて即身成仏したのであって、その御本仏である日蓮大聖人を蔑〔ないがし〕ろにして、釈迦如来や阿弥陀如来などをいくら拝んでも、まったく意味がないのです。