日蓮正宗法華講 開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑚資料


背景と大意 第3章 源信、法然、成覚


源信〔げんしん〕(西暦942年~1017年)は、平安時代・中期の天台宗の僧で、大和国〔やまとのくに〕(奈良県)の出身で、母親の影響を受けて幼くして比叡山に登り、天台宗第十八代座主、良源に師事して天台の教義を学びました。
十三歳で得度し、十五歳にして、称讃浄土経を講じ、村上天皇により法華八講の講師の一人に選ばれましたが、母親の名聞名利を捨てよという諌言から、横川恵心院〔よかわ・えしんいん〕に隠遁し、恵心僧都〔えしん・そうず〕、横川僧都〔よかわ・そうず〕と言われました。
寛仁元年6月10日(西暦1017年)の臨終に際しては、阿弥陀如来像の手に結びつけた糸を手にして、合掌しながら亡くなったと伝えられています。
「因明論疏・四相違略・注釈三巻」、「往生要集三巻」「大乗対倶舎抄十四巻」「一乗要決三巻」「阿弥陀経・略記一巻」「法華經義讀一巻」「横川法語」などを著わしました。
この中の「往生要集三巻」は、極楽往生に関する経論を集めたもので日本における最初の系統的な浄土教についての著作です。
最初に地獄を含めた六道の有様を述べ、次に浄土の様子を説き、最後に極楽往生の為に念仏を称〔とな〕えることを勧めています。
また「一乗要決三巻」では、法華経の一乗思想を強調し、一切衆生に仏性があることを主張をして、法相宗の五性各別を破折して、後の日本における浄土宗の興隆に多大な影響を与えました。
日蓮大聖人は、守護国家論において、源信の本意は、「往生要集」ではなく、むしろ、この「一乗要決」にあると御教示されています。(注1)
法然房・源空〔ほうねんぼう・げんくう〕(西暦1133年~1212年)は、平安時代末期、後鳥羽上皇時代の日本浄土宗の開祖です。
美作〔みまさか〕(岡山県北部)の生まれで幼名を勢至丸と言い、九歳で菩提寺の観覚〔かんかく〕の弟子となり、十五歳で比叡山に登り功徳院の皇円〔こうえん〕に師事し、その後、比叡山、山腹の黒谷〔くろだに〕に住む天台宗の僧、叡空〔えいくう〕に学び、十七歳にして、一切経、天台大師・妙楽大師の三大部六十巻、八宗派を習い極め、釈迦牟尼仏の一代聖教の大意を得たと騒がれ、天下無双の智者、叡山第一の学匠などと世間から、もてはやされたと言います。
さらに二十四歳の時に京都、奈良に遊学し、法相宗、三論宗、華厳宗などの諸宗派を極めたと言われています。
その後、再び黒谷に帰って経蔵に入り、大蔵経を閲覧し、善導の「観無量寿経疏・正宗分・散善義」及び源信の「往生要集」を見るに及んで専修〔せんじゅ〕念仏に帰依し、承安5年(西暦1175年)の春、四十三歳で専修念仏の浄土宗を創立したのです。
「専修〔せんじゅ〕」とは、法然が、その著書、選択集〔せんちゃくしゅう〕で、浄土往生を願うならば、ただ、ひたすら念仏を修行すべきであると主張し、無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の浄土三部経以外の諸経による修行を「雑行〔ぞうぎょう〕」として廃し、専〔もっぱ〕ら念仏を称〔とな〕えることのみが「正行〔しょうぎょう〕」であると主張したのです。
また、「浄土三部の外は衆経を棄置すべし唱名一行の外は余行を廃退すべし」と主張し「雑を捨て(中略)定散の門を閉じ(中略)聖道門を閣〔さしお〕き(中略)諸雑行を抛〔なげう〕て」と説いて、浄土三部経に依る浄土宗を浄土門・易行道・正行とし、それ以外の諸経に依る諸宗を聖道門・定散門・難行道・雑行と呼び、そのすべてを「捨〔す〕てよ、閉〔と〕じよ、閣〔さしお〕け、抛〔なげう〕て」と否定したのです。
その結果、法然の邪義に感化された人々は、法華経などの大乗経典を軽んじ、古来から崇められてきた天神地祇や天皇すら、軽視するようになったのです。
また、比叡山などで顕教を学ぶ者は、癡人であり、三論や法相の学者は、誑人〔おうにん〕であるなどと誹謗した為、旧来の仏法各宗派は、急速に衰え、人々の念仏への傾倒は、ますます、激しくなっていったのです。
そこで奈良の興福寺や比叡山、延暦寺などから、法然の専修念仏の主張が邪義であると指摘した奏上が朝廷に届けられ、これを受けて朝廷からは、法然を流罪にするとの宣旨が出されたのです。
元久元年(西暦1204年)10月に新興の念仏宗に対し、延暦寺の教徒たちは、延暦寺・大講堂で集会を開き、専修念仏の教義や風紀上の問題を取り上げて、専修念仏の禁止を天台座主の真性〔しんしょう〕に訴えた為、法然は、門人の行動を正す「七箇条起請文」を著して他宗を批判することを禁じ、門下190人に署名させ、11月7日付で、それを真性〔しんしょう〕に提出したのです。
起請文とは、神仏に誓いを立て、自分の行為、言説に偽りのないことを表明した文書のことです。
法然は、この七箇条起請文の中で、飲酒・肉食などを厳〔きび〕しく戒めています。
ふたたび、翌年10月に奈良、興福寺の宗徒が、法然の一派が念仏を称〔とな〕えて他宗を誹謗したことを取り上げ、念仏の禁止を訴えた奏状を朝廷に提出した為、元久3年(西暦1206年)2月に院宣によって法然の弟子、行空〔ぎょうくう〕、安楽房・遵西〔じゅんさい〕が捕えられて、流罪になったのです。
法然の弟子、遵西と住蓮〔じゅうれん〕は、善導〔ぜんどう〕の「往生礼讃」の中にある「一昼夜に六回、阿弥陀仏を礼讃する六時礼讃〔らいさん〕」の偈文に節をつけ、僧俗で合唱することを始めた人々です。
その哀調を帯びた六時礼讃の声は、特に女性に強い感動を与えたようで、庶民ばかりでなく、朝廷や院に仕える女房や局〔つぼね〕たちまでが、法然に帰依していたのです。
そのような中で、建永2年(西暦1207年)2月、後鳥羽上皇が熊野御幸〔ごこう〕(熊野参詣)の留守中に京の東山・鹿谷〔ししのたに〕で執り行われた特別な念仏の集会で、往生礼讃偈に節をつけて称〔とな〕える演出をしたところ、哀歓悲喜の音曲〔おんぎょく〕のあまりの貴〔とうと〕さに多くの人々が感激し、それを聞いた者が、大勢、法然に帰依したのです。
その中に勝手に、これに参加した御所の留守中の女房たちも居たことから、後鳥羽上皇の詮議〔せんぎ〕を受け、不義密通の罪で安楽と住蓮の二人は、処刑され、専修念仏は、風俗を乱す邪教として、禁止されたのです。
法然も、その結果、後鳥羽上皇の命により、僧籍を剥奪され、俗名・藤井元彦として土佐に流罪されました。
翌年、法然は、許されて、しばらくは、摂津国(大阪府)の勝尾寺に住した後、建暦元年(西暦1211年)に京都に帰り、大谷の知恩院に住して翌年、享年八十歳で没しました。
その死後、比叡山・延暦寺を中心とする仏教秩序を破壊し、仏法に無知な民衆を扇動したとして墓を暴かれます。
伝記によると、法然上人の母が剃刀〔かみそり〕を飲む夢をみて、法然を懐妊し、法然の父は、その夢は、生まれる子が人々を仏教に導く人になる吉兆だと喜んだといいます。
当時、日本は、桓武〔かんむ〕天皇以来、伝教大師の比叡山・延暦寺の戒壇(根本中堂)を中心とする仏教秩序を維持していました。
それを新興宗教であった専修念仏が多くの民衆を洗脳して法華経を誹謗し、仏教集団を破壊する謗法を繰り返し、いくら、みえすいた弁明をしても、一向にそれを改めなかったのです。
そして遂に朝廷より仏教を破壊する者として処断されるに至ったのです。
まさに、これは、このことを予見する不吉な悪夢であったのです。
「念仏追放宣旨御教書事」では、法然の専修念仏が仏法破壊の原因となる邪義であることを御教示され、延暦寺などから出された奏上〔そうじょう〕と、それに応じて出された宣旨〔せんじ〕などを参考資料として添付されています。
当時から、念仏の流行に対しては、早くから、その教義的な誤りが諸宗派によって指摘され、また、社会の混乱を招く事例が多発したことから、朝廷や幕府から、専修念仏の禁止を命ずる御教書〔みきょうしょ〕などが何度も出されていました。
大聖人は、それらを、まとめることによって、念仏が国を乱す邪法であり、それが社会的にも糾弾されていることを明らかにされ、そうした邪教である専修念仏を捨てて、正法に帰するよう勧められています。
著書に、「選択集」二巻をはじめ、「浄土三部経釈」三巻、「往生要集釈」一巻等があります。
選択集は、法然の代表的著作で、正式には選択本願念仏集と言い、九条兼実の依頼によって建久9年(西暦1198年)に選述されました。
上下二巻からなり、浄土宗の教義を十六章に分けて明かしています。
その内容は、釈迦一代の仏教を聖道門と浄土門、難行道と易行道、雑行と正行とに分け、念仏以外の教えを捨閉閣抛〔しゃ・へい・かく・ほう〕せよという破仏法の邪義で、当時においてですら上野国〔こうずけのくに〕(群馬県)、並榎〔なみえ〕の定照〔じょうしょう〕から「弾選択〔だんせんちゃく〕」、山城国〔やましろのくに〕(京都府)、栂尾〔とがのお〕の明慧〔みょうえ〕から「選択集中墔邪輪〔さいじゃりん〕三巻」「荘厳記〔しょうごんき〕一巻」をもって破折されています。
成覚〔じょうかく〕法師(西暦1163年~1247年)は、成覚房・幸西〔こうさい〕のことです。
はじめは、比叡山において天台宗を学びましたが、三十六歳の時に弟子の死にあって無常を感じ、法然を訪ねて弟子入りしました。
その後、承元元年(西暦1207年)、法然が土佐に流されたときには、阿波に流され、さらに法然の死後、嘉禄3年(西暦1227年)にも壱岐に流されたと言います。
また一念でも仏心と相応すれば、極楽往生できるという一念義を主張した為に、法然からも附仏法の外道と責められて、破門されたとも言います。
一念義とは、一度でも念仏を称〔とな〕えれば、それで往生は、決定してしまうのだから、多く称える必要はないという説です。
それに対して、できるだけ多く称えて阿弥陀仏に恩を報ずべきだというのが専修〔せんじゅ〕念仏で、法然自身、日に六万遍、称〔とな〕えたと伝えられています。
このように、すでに法然の生存中から、法然を批判する者は、跡をたたなかったのです。

(注1) 御書132頁 「故に往生要集の後に一乗要決〔いちじょう・ようけつ〕を造りて自身の内証を述ぶる時、法華経を以て本意と為す。」(守護国家論)


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