日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑽資料


法門申さるべき様の事 第1章 念仏の不孝は五逆罪


【法門申さるべき様の事 文永七年一二月 四九歳】
法門申さるべき様の事(各宗教義事) 文永7年12月 49歳御作


【法門申さるべきやう。】
法門において議論すべき事については、

【選択〔せんちゃく〕をばうちを〔置〕きて、先づ法華経の第二の巻の】
選択〔せんちゃく〕集については、一応、さておき、まず法華経・第二巻の譬喩品の

【今此〔こんし〕三界〔さんがい〕の】
「今此の三界は、皆是れ我が有なり、其の中の衆生は、悉く是れ我が子なり」の

【文を開きて、釈尊は我等が親父なり等定め了〔おわ〕るべし。】
文章を挙げて、釈尊は、我等にとって父であり親であることを理解すべきなのです。

【何〔いず〕れの仏か我等が父母にてはをは〔在〕します。】
釈迦牟尼仏以外の、どの仏が我等の父母と言えるのでしょうか。

【外典三千余巻にも忠孝の二字こそせん〔詮〕にて候なれ。】
外典三千余巻でも、忠義と孝行の二文字を人間としての道徳の至極としています。

【忠は又孝の家より出づとこそ申し候なれ。】
その忠義の心も、孝行を教える家から出ていると説かれています。

【されば外典は内典の初門、】
それ故に外道を説いた外典は、仏教を説いた内典の初門であり、

【此の心は内典にたがわず候か。】
その説く心は、内典と異なってはいないのです。

【人に尊卑上下はありというとも、】
人に尊い者、卑しい者など、上下は、あるとしても、

【親を孝するにはすぎずと定められたるか。】
親に対して孝行をすることよりも優れることはないのです。

【釈尊は我等が父母なり。一代の聖教は父母の子を教へたる教経なるべし。】
釈尊は、我等にとって父母であり、一代の聖教は、父母が子に教えた教えなのです。

【其の中に天上・竜宮・天竺〔てんじく〕なんどには無量無辺の】
その中に天上、竜宮、インドなどには、数多くの

【御経ましますなれども、漢土・日本にはわづかに五千七千余巻なり。】
教えがありますが、中国・日本には、僅かに五千から七千余巻があるだけなのです。

【此等の経々の次第勝劣等は、私には弁へがたう候。】
これらの経文の次第や優劣などは、我々が勝手に変更できるものではありません。

【而るに論師・大師・先徳には】
それで優れた論師、大師、先徳の智慧に

【末代の人の智慧こへがたければ、】
末法に生まれた者の智慧は、超えることができないので、

【彼の人々の料簡〔りょうけん〕を用ゆべきかのところに、】
それらの人々の判断を用〔もち〕いるべきでしょうが、

【華厳宗の五教四教、法相・三論の三時】
華厳宗の五教、四教の判断基準や、法相宗・三論宗の三時の判断基準、

【二蔵、或は三転法輪。】
声聞蔵と菩薩蔵の二蔵、あるいは、三種類の法輪などの判断基準がありますが、

【「世尊法久後要当説真実」の文は】
「世尊は、法久しくして後、要ず当〔まさ〕に真実を説きたまうべし」の文章も、

【又法華経より出でて候金口〔こんく〕の明説なり。】
また法華経から出ているのであり、仏の口から出た明らかな仏説なのです。

【仏説すでに大いに分かれて二途なり。】
このように仏説は、すでに大きく分かれて二つとなっているのです。

【譬へば世間の父母の譲〔ゆず〕りの前判・後判のごとし。】
たとえば、世間で言う遺言の以前の文章と以後の文章のようなものなのです。

【はた又、世間の前判・後判は如来の金言をまなびたるか。】
あるいは、この遺言の世間の考え方は、如来の言葉から学んだものかも知れません。

【孝不孝の根本は前判・後判の用・】
親への孝、不孝の根本的な違いは、この以前の文章と以後の文章の

【不用より事をこれり。】
どちらを用〔もち〕い、どちらを用いないかによって起こるのです。

【かう立て申すならば人々さもやとをぼしめしたらん時】
このように筋道を立てて考えるならば、人々も確かにそうだと思うことでしょう。

【申すべし。】
そのようになったときは、次のように述べなさい。

【抑〔そもそも〕浄土の三部経等の諸宗の依経は当分四十余年の内なり。】
そもそも浄土三部経などの諸宗の依経は、以前の四十余年の間の経文なのです。

【世尊は我等が慈父として末顕真実ぞと定めさせ給ふ御心は、】
世尊は、私達の父として「未だ真実を顕さず」と定められましたが、その心は、

【かの四十余年の経々に付けとをぼしめしゝか、】
その四十余年に説かれた以前の浄土三部経などの経文に付かせようとの考えなのか、

【又説真実の言にうつれとをぼしめしゝか。】
また「真実を説く」とあるように、それ以後の法華経に移らせようとの考えなのか、

【心あらん人々御賢察候べきかとしばらくあぢ〔味〕わひて、】
志〔こころざし〕のある人々は、よくよく考えてみるべきであると言って、

【よも仏程の親父の一切衆生を一子とをぼしめすが、】
しばらく様子をみて、仏ほどの親が、すべての衆生を我が子と思っているのに、

【真実なる事をすてゝ末顕真実の不実なる事に】
「真実」である法華経を捨てて「未だ真実を顕さず」の不実である浄土三部経などに

【付けとはをぼしめさじ。】
付かせようと、思われるはずがないと述べてください。

【さて法華経にうつり候はんは四十余年の経々をすてゝ遷〔うつ〕り候べきか、】
さて法華経に移るのには、四十余年の経文を捨てて移るべきなのか、あるいは、

【はた又かの経々並びに南無阿弥陀仏等をばす〔捨〕てずして】
それらの経文や「南無阿弥陀仏」の念仏を捨てないで

【遷り候べきかとをぼ〔思〕しきところに、】
移るべきかと考える時、

【凡夫の私の計〔はか〕らひ是非につけてをそ〔恐〕れあるべし。】
凡夫の勝手な考えでは、どちらにしても恐れ多いことです。

【仏と申す親父の仰せを仰ぐべしとま〔待〕つところに、仏定めて云はく】
私達、衆生の親である仏の考えを仰ぐべきであると求めると、

【「正直捨方便」等云云。】
仏は「正直に方便を捨てて」と定められているのです。

【方便と申すは無量義経に末顕真実と申す上に以方便力と申す方便なり。】
「方便」というのは、無量義経に「未だ真実を顕さず」と説かれた上で

【以方便力の】
「方便力を以〔もっ〕て」と説かれている「方便」のことです。

【方便の内に浄土三部経等の四十余年の】
「方便力を以〔もっ〕て」の「方便」の内に浄土三部経等の四十余年の

【一切経は一字一点も漏るべからざるか。】
すべての経文は、一字一点も漏れるはずもなく入っているはずです。

【されば四十余年の経々をすてゝ法華経に入らざらん人々は】
そうであれば、四十余年のすべての経文を捨てて法華経に入らない人々は、

【世間の孝不孝はしらず、仏法の中には第一の不孝の者なるべし。】
世間的な孝、不孝は、知りませんが、仏法の中では、第一の親不孝の者なのです。

【故に第二譬喩品に云はく「今此の三界は、】
それ故に法華経・第二巻の譬喩品には「今此の三界は(中略)

【乃至復〔また〕教詔〔きょうしょう〕すと雖も、而も信受せず」等云云。】
また教詔すと言えども信受せず」と説かれているのです。

【四十余年の経々をすてずして法華経に並べて行ぜん人々は】
四十余年の経文を捨てないで、法華経と一緒に修行する人々は、

【主師親の三人のをほ〔仰〕せを用ひざる人々なり。】
主、師、親の三人の考えを用〔もち〕いない人々なのです。

【教と申すは師親のをしえ、】
「教」というのは、師匠と親の教えであり、

【詔と申すは主上〔しゅじょう〕の詔勅〔みことのり〕なるべし。】
「詔」というのは、天皇の詔勅なのです。

【仏は閻浮第一の賢王・聖師・賢父なり。】
仏は、閻浮提〔えんぶだい〕第一の賢王であり、聖師であり、賢父なのです。

【されば四十余年の経々につきて法華経へうつ〔移〕らず、】
したがって、四十余年の経々に付いて、法華経に移らない人、

【又うつれる人々も彼の経々をすてゝうつ〔移〕らざるは、】
また移った後も、爾前の経々を捨てない人々は、

【三徳を備へたる親父の仰〔おお〕せを用ひざる人、】
主師親の三徳を備えている親の考えを用〔もち〕いない人であり、

【天地の中にす〔住〕むべき者にはあらず。】
天地の間に住むべき者ではありません。

【この不孝の人の住処を経の次下に定めて云はく「若し人信ぜず、】
この不孝の人の住処を法華経・譬喩品の次下に「若し人が信ぜずして(中略)

【乃至其の人命終して阿鼻獄〔あびごく〕に入らん」等云云。】
その人は、命終して阿鼻獄に入る」と定められています。

【設ひ法華経をそしらずとも、うつり付かざらむ人々、】
たとえ法華経を謗〔そし〕らなくても、法華経に移らない人々は、

【不孝の失〔とが〕疑ひなかるべし。】
不孝の罪と成ることは、疑いないのです。

【不孝の者は又悪道疑ひなし。】
不孝の者は、また悪道に堕ちることは、疑いないのです。

【故に仏は「入阿鼻獄」と定め給ひぬ。】
それ故に仏は「阿鼻獄に入る」と定められたのです。

【何〔いか〕に況〔いわ〕んや爾前〔にぜん〕の経々に】
まして、爾前の経文に

【執心を固〔かた〕くなして法華経へ遷らざるのみならず、】
執着する心が固く、法華経へ移らないだけでなく、

【善導が千中無一、法然が捨閉〔しゃへい〕閣抛〔かくほう〕とかけるは、】
善導のように「千中無一」と言い、法然のように「捨閉閣抛」と言うならば、

【あに阿鼻地獄を脱るべしや。】
どうして阿鼻地獄を免〔まぬが〕れることができるでしょうか。

【其の所化並びに檀那〔だんな〕は又申すに及ばず。】
その僧侶や信者も、また言うまでもありません。

【「復教詔すと雖も、而も信受せず」と申すは孝に二つあり。】
「また教詔すと言えども、信受せず」と言うのは、孝行に二つあるのです。

【世間の孝の孝不孝は外典の人々これをしりぬべし。】
世間的な孝、不孝は、外典の人々もこれを知っているでしょう。

【内典の孝不孝は設ひ論師等なりとも、】
しかし、内典の孝、不孝は、たとえ論師などであっても、

【実経を弁〔わきま〕へざる権経の論師の流れを受けたる末の論師なんどは、】
法華経である実教を理解しない権教の流れを汲んだ論師などは、

【後生しりがたき事なるべし。】
死後は、苦しみの境界に堕ちるのです。

【何に況んや末々の人々をや。】
まして、それよりも、さらに末の人々は、言うまでもありません。

【涅槃経の三十四に云はく「人身を受けん事は爪上〔そうじょう〕の土、】
涅槃経第三十四に「人身を受けることは、爪の上の土のように少なく、

【三悪道に堕〔お〕ちん事は十方世界の土、】
三悪道に堕ちることは、十方世界の土のように多い。

【四重五逆乃至涅槃経を謗ずる事は十方世界の土、】
四重禁や五逆罪を犯し、また涅槃経を誹謗することは、十方世界の土のように多く、

【四重五逆乃至涅槃経を信ずる事は】
四重禁や五逆罪を犯さず、涅槃経を信ずることは

【爪の上の土」なんどとと〔説〕かれて候。】
爪の上の土のように少ない」などと説かれています。

【末代には五逆の者と謗法の者は十方世界の土のごとしとみへぬ。】
末法では、五逆罪の者と謗法の者は十方世界の土のように多いということなのです。

【されども当時五逆罪つくる者は爪の上の土、】
しかしながら、今日、五逆罪を犯す者は、爪の上の土のように少なく、

【作らざる者は十方世界の土程候へば、】
犯さない者の方が、十方世界の土のように多いと思われるので、

【経文そらごと〔虚事〕なるやうにみ〔見〕へ候を、】
この経文は、嘘のように見えますが、このことを詳しく考えてみると、

【くはしくかん〔考〕がへみ候へば、不孝の者を五逆罪の者とは申し候か、】
この法華経に移らない不孝の者を五逆罪の者と言われたのでしょうか。

【又相似の五逆と申す事も候。】
また五逆罪によく似た、それに順ずる罪を言うのでしょうか。

【さるならば前王の正法実法を弘めさせ給へと候を、】
そうであるならば、前の天皇が正法・実法を弘めよと言われたのを、

【今の王の権法相似の法を尊んで】
現在の天皇が権法・相似〔そうじ〕の法を尊〔とうと〕んで、

【天子本命の道場たる正法の御寺の御帰依うすくして、】
天皇が本命とされている、道場である正法の延暦寺への帰依は薄く、

【権法邪法の寺の国々に多くい〔出〕でき〔来〕たれるは、】
権法・邪法の念仏宗の寺が国中に多く造られていることは、

【愚者の眼には仏法繁盛とみへて、】
愚者の眼には、仏法が繁栄しているように見えますが、

【仏天智者の御眼には古き正法の寺々やうやくう〔失〕せ候へば、】
仏や智者の眼には、古き正法の寺々が次第に朽〔く〕ちているのですから、

【一には不孝なるべし、賢なる父母の氏寺をすつるゆへ、】
一には、賢い両親の氏寺を捨てる故に不孝であり、

【二には謗法なるべし。】
二には、謗法である故に不孝であるのです。

【若ししからば日本国当世は、国一同に不孝謗法の国なるべし。】
もし、そうであるならば、日本の今の世は、国全体が不孝と謗法の国なのです。

【此の国は釈迦如来の御所領、】
この国は、釈迦如来の所領であり、

【仏の左右の臣下たる大梵天王・第六天の魔王にたば〔賜〕せ給ひて、】
仏の左右の臣下である大梵天王、第六天の魔王の力によって、

【大海の死骸〔しがい〕をとゞ〔留〕めざるがごとく、】
大海が死骸を留めておかないように、

【宝山の曲林をいと〔厭〕うがごとく、】
宝の山が曲がった木を嫌うように、

【此の国の謗法をかへんとをぼすかと勘へ申すなりと申せ。】
この国の謗法を変えようとの御意向であるかと考えていると言ってください。



ページのトップへ戻る