御書研鑚の集い 御書研鑚資料
法門申さるべき様の事 背景と大意
本抄には、御執筆の年が明記されていませんが、文永7年(西暦1270年)年12月、大聖人が49歳の時に鎌倉で認〔したた〕められ、比叡山・延暦寺に遊学中の三位房〔さんみぼう〕日行に与えられた書とされています。
御真筆は、千葉県市川市の中山・法華経寺に現存しています。
三位房は、三位公、三位殿とも言われ、生没年は不明ですが、下総国(千葉県)の出身で、早くから大聖人の弟子に加えられ、日興上人の富士弘教の補佐や諸宗派との問答を命じられるなどの活躍が目立ちました。
「頼基陳状」には、建治3年(西暦1277年)6月9日、鎌倉、桑ケ谷〔くわがやつ〕で説法していた天台僧・竜象房〔りゅうぞうぼう〕と問答をし、完膚なきまでに論破した様子が述べられています。
居合わせた聴衆は、それを見て大いに歓喜し、三位房に説法を請うほどだったと言われています。
しかし才智におぼれ、慢心を起こす傾向があり、大聖人の御指南に背〔そむ〕くことも重なって、弘安2年(西暦1279年)に起きた熱原法難の頃に退転し、不慮の死を遂げたとされています。
弘安2年10月1日御述作の聖人御難事には「三位房が事は(中略)はらぐろ〔腹黒〕となりて大づちをあたりて候ぞ」(御書1398頁)と述べられており、また弘安2年5月17日の四菩薩造立抄の文末でも、三位房の死去に触れられ「法華経の文読み進らせて南無妙法蓮華経と唱へ進らせ、願はくは日行を釈迦・多宝・十方の諸仏、霊山へ迎へ取らせ給へと申し上げ候ひぬ。」(御書1370頁)と仰せられています。
本抄は「法門申さるべきやう」と冒頭に記されているように、三位房の質問に応じ、法論のことを御指南される一方、三位房が遊学中の身であるところから、叡山の僧徒との間に法論が交わされることを予想して問答形式で御教示をされています。
また、題号は、この書き出しに即して後代に付されたものであり、別名を「各宗教義事」「法門可申抄」とも称されています。
本抄では、まず、釈尊が一切衆生にとって主師親の仏であることを説かれており、法華経第二巻・譬喩品の「今此の三界は皆是我が有〔う〕なり(国主なり報身なり)其の中の衆生は悉〔ことごと〕く吾が子なり(親父なり法身なり)而も今此の処は諸の患難〔げんなん〕多し、唯〔ただ〕我一人のみ能〔よ〕く救護〔くご〕を為す(導師なり応身なり)」(御書251頁)の文を示して、このことを訴えるように述べられています。
この娑婆世界の衆生にとって有縁の仏は、主師親の三徳を備えた釈迦牟尼仏のみであって、西方十万億土の極楽世界の阿弥陀如来は、娑婆世界の衆生にとっては、まったく無縁の仏であると主張せよとの仰せなのです。
それは、三位房が居た京を含め、日本各地で阿弥陀仏の名を称〔とな〕える念仏信仰が日本の社会に深く根を降ろし、本来は、日本の仏教の中心であるべき比叡山・延暦寺までが、まさに念仏信仰の謗法の山に成り果てていたからです。
しかし、これは、世論や権力におもねる心が強い三位房にとっては、好ましい忠告では、なかったでしょう。
そこで世界に色々な規範があっても、その基本は、親に対する感謝であり、親子の親愛の情を抜きに人間性を考えることはできず、また、親に対する報恩を抜きに、いくら社会のリーダーに対する報恩を説いても意味がないことを指摘され、人間として生きていく為の教育をしてくれるのも基本は、親によることを御教示されています。
まさに、すべての規範の中心は、親への報恩感謝と言ってもよいのです。
その親への報恩は、外道〔げどう〕である中国の儒教でも「孝行」として重要視されているのです。
このように世俗に弱い三位房に対して、社会通念から、いかに釈迦牟尼仏を軽んじ、阿弥陀如来を重んじることが間違っているかを説かれているのです。
「今此三界合文」には、「今此の三界は皆是我が有〔う〕なり(国主なり報身なり)其の中の衆生は悉〔ことごと〕く吾が子なり(親父なり法身なり)而も今此の処は諸の患難〔げんなん〕多し、唯〔ただ〕我一人のみ能〔よ〕く救護〔くご〕を為す(導師なり応身なり)」(御書251頁)とあり、また「涅槃の疏〔しょ〕第二に云はく(中略)無主は是〔これ〕仏を失ひ、無親は是法を失ひ、無救〔むく〕は是僧を失ふ。若し主無ければ忠〔ちゅう〕護する所無く、若し親無ければ孝〔こう〕帰する所無く、若し師無ければ学〔がく〕趣く所無からん。既に主の為に護られず、又主として護るべき無きは、即ち栄無く禄〔ろく〕無し。是の故に貧と言ふ。既に親として帰すべき無く、又親去りて帰せざれば、即ち生無く陰〔おん〕無きなり。是の故に窮〔ぐ〕と言ふ。既に師として趣くべき無く、又師として趣くを示さゞれば、即ち訓無く成無し。是の故に困と言ふ(中略)主無く親無ければ家を亡ぼし国を亡ぼす(中略)一体の仏を主師親と作す」(御書252頁)とあります。
十如是事には「初めに如是相とは我が身の色形に顕はれたる相を云ふなり。是を応身如来とも、又は解脱〔げだつ〕とも、又は仮諦〔けたい〕とも云ふなり。次に如是性とは我が心性を云ふなり。是を報身如来とも、又は般若〔はんにゃ〕とも、又は空諦〔くうたい〕とも云ふなり。三に如是体とは我が此の身体なり。是を法身〔ほっしん〕如来とも、又は中道〔ちゅうどう〕とも、法性〔ほっしょう〕とも、寂滅〔じゃくめつ〕とも云ふなり。されば此の三如是を三身如来とは云ふなり。」(御書104頁)とあります。
「主の徳」
「仏」を失い「忠」に「護る」べきところなく栄なく禄なく故に「貧」と言う。
「如是性」とは、「心性」であり、是を「報身如来」とも「空諦」とも「般若」とも言う。
「親の徳」
「法」を失い「孝」に帰すべきところなく生なく陰なく故に「窮」と言う。
「如是相」とは、「色相」であり、是を「応身如来」とも「仮諦」とも「解脱」とも言う。
「師の徳」
「僧」を失い「学」に趣くべきところなく訓なく成なく故に「困」と言う。
「如是体」とは、「身体」であり、是を「法身如来」とも「中道」とも「法性」とも「寂滅」とも言う。
このように仏教の「戒定慧の三学」も「報身・応身・法身の三身」も「主師親の三徳」も一身に集まるのです。
つまりは、「今此三界」の合文とは、釈迦牟尼仏は、この「主師親の三徳」を兼備し、さらに「報身・応身・法身」の三身即一身であり、また「戒定慧の三学」を備えているという意味で、単に親に孝行、師に心服、主に忠義という道徳を超えるものなのです。
その三徳兼備の釈迦牟尼仏は、インドで成道してより、多くの経典を残しましたが、これは、釈尊の死後、幾度かの経典の結集によって集められたものです。
それ故にすべての経文の冒頭には、「如是我聞」とあるのです。
その経典の中で中国、日本に渡ったものは、五千から七千余巻であり、これらの経文の内容を中国、日本の論師、大師、先徳と称された人々が多くの注釈書を作って、その内容について説明を試みたのです。
その中で中国の天台大師は、法華経の開経である無量義経の中の「衆生の性欲〔しょうよく〕不同なれば、種々に法を説〔と〕きき。種々に法を説くこと、方便力〔ほうべんりき〕を以〔もっ〕てす。四十余年には未〔いま〕だ真実を顕〔あらわ〕さず。是〔こ〕の故に衆生は得道差別〔しゃべつ〕して、疾〔と〕く無上菩提〔ぼだい〕を成〔じょう〕ずることを得〔え〕ず(四十余年・未顕真実・是故衆生・得道差別・不得疾成・無上菩提)」という文、法華経方便品の中の「世尊は法〔ほう〕久〔ひさ〕しくして後〔のち〕要〔かなら〕ず当〔まさ〕に真実を説きたまうべし(世尊法久後要当説真実)」、また「正直に方便を捨てて但〔た〕だ無上道を説く(正直捨方便・但説無上道)」の文章により、法華経がすべての経文の中で最第一と宣言されたのです。
本抄では「譬へば世間の父母の譲〔ゆず〕りの前判・後判のごとし」(御書427頁)とあり、譲り状が二通りある場合、前の譲り状を「前判」、後の譲り状を「後判」と言い、通常は、後判が有効となるのです。
つまり、法華経以前の爾前経が前判、法華経が後判となり、爾前教である浄土三部経を依経とする阿弥陀如来を信じることは、一切衆生の父母である釈迦牟尼仏の意思を踏みにじって不孝となるのです。
その不孝の人が堕ちるべき場所は、やはり法華経の譬喩品に「若〔も〕し人信ぜずして此〔こ〕の経を毀謗〔きぼう〕せば則〔すなわ〕ち一切世間の仏種を断ぜん(中略)其〔そ〕の人は命終〔みょうじゅう〕して阿鼻獄〔あびごく〕に入らん」と説かれています。
阿鼻獄とは、阿鼻地獄、無間地獄のことで、阿鼻は、梵語で間断のない苦しみを意味するので無間と訳し、八大地獄の最下層にある地獄のことで五逆罪の者、正法誹謗の者が堕ちるとされています。
たとえ法華経を誹謗していなくても、法華経を信じなければ、不孝の罪は、免〔まぬが〕れられず、このような人は「入阿鼻獄疑いなし」と仏は、断言されているのです。
まして中国・浄土宗の善導のように爾前権教に固く執着して法華経を信じないばかりか「法華経などの修行によって成仏する者は、千人に一人もいない」としたり、あるいは、日本浄土宗の開祖・法然房のように浄土三部経以外の諸経は、聖道門・難行道・雑行として「捨てよ、閉じよ、閣〔さしお〕け、抛〔なげう〕て」と主張するなどの法華経誹謗の者は、まさに「入阿鼻獄は必定」であり、その弟子や信者も、また同様の結果を招かざるを得ないのです。
さらに本抄の「前王の正法実法を弘めさせ給へと候を」(御書429頁)とは、前王の五十代桓武天皇の時代に伝教大師が当時の奈良の南都六宗派の邪義を破折された結果、六宗派の高僧が天皇に謝罪の書簡を提出し、比叡山に法華円頓戒壇建立の勅許も出て法華経・迹門の戒壇建立が実現したことを言われています。
しかし、伝教大師の死後、天台宗では、伝教大師の後継である義真・円澄の後の第三代・慈覚の時代から弘法の密教を取り入れ、更に第五代・智証も理同事勝の邪義を継承するにいたったのです。
とくに慈覚が第五十四代・仁明〔にんみょう〕天皇に対して国家鎮護の法を、これまでの法華経などの三部経を捨て、真言の三部経とする旨の奏聞〔そうもん〕をして以来、国を挙げて「権法・相似〔そうじ〕の法」を尊ぶようになり、「天子本命の道場たる正法の御寺」比叡山・延暦寺は、もはや天台法華宗とは、名ばかりで、実質的には天台密教と化してしまったのです。
このように天台座主〔ざす〕の慈覚らは、天台宗を堕落させてしまっただけでなく、日本全体に真言の邪義を弘める素地を作ったわけですから、このうえない大罪を犯したと言えるのです。
それは、単に仏教の中心である比叡山・延暦寺のみの問題ではなく、それを手本にして、日本全体に念仏、真言、禅、律の権門、邪法の新興宗教が広まり、仏法に無知な者には、それが仏法が繁栄しているように映るかも知れませんが、仏教を知る智者の目からみれば、聖徳太子以来、続いて来た法華経を中心とした信仰が失われていくことであり、それを「賢なる父母の氏寺をすつるゆへ」に「一には不孝なるべし」(御書429頁)と述べられているのです。
また、この日本は、「今此三界」の経文が示す通り「釈迦如来の御所領」であるのに阿弥陀如来・大日如来などのこれら権仏を立てる故に、釈迦如来の臣下である大梵天王や第六天の魔王に命じられて、この国の不孝の者、謗法の者を責め、それを改めさせようとして他国侵逼難〔たこく・しんぴつのなん)・自界叛逆難〔じかい・ほんぎゃくのなん〕が起こるのであると主張するように、三位房に命じられています。
これも権力に弱い三位房にとっては、頭が痛い話ですが、日蓮大聖人の弟子を名乗るからには、当然、立正安国論と同じ主張をするべきで、権力者にとって正しい道理を述べる智者ほど憎いものはないのです。
しかし、当時、像法時代の大乗戒壇を持つ比叡山・延暦寺は、国家権力が認める官営僧侶の巣窟であり、ひとたび、これに逆らえば、武力も辞さないほどの権力を持っていたのです。
そこで兼ねてより三位房が不審に思っていたであろう疑問をあえて、次々に出されます。
まず、釈迦牟尼仏が捨てられた四十余年の経文が今も残って広まっているのは、どういうわけなのかとの疑問に対し、塔は、実教であり、足場は、権教であり、当然、塔を建て終われば、足場は取り外すべきものであるが、塔を修理するときには、再び足場を組み直さなければならないと述べられ、いまだ法華経に理解が及ばない者の為には、小乗・権大乗教が必要であることを指摘されています。
しかし、当然のことながら、法華経を学ぶ為であり、それが終われば、足場である小乗・権大乗教は、ことごとく捨てられるのです。
大聖人は、これは、法華経方便品に説かれる総諸仏、三世諸仏、釈迦牟尼仏の「五仏道同の儀式」であると指摘されています。
また、慈覚大師は、常行三昧堂を建て念仏を称〔とな〕えたではないかとの疑問には、仏教を信じる者も外道の書物を読むように、それは、修行の為ではなく、向学の為であり、また、法華経を心から信じ納得する為の段階であると答えられています。
さらに、そうであるならば、なぜ、あなたは、念仏を称〔とな〕えないのかとの疑問には、法華経の題目と浄土宗の念仏は、まぎわらしく、どちらも同じであると誤解を生じさせない為であると述べられています。
当然、末法の御本仏である日蓮大聖人が念仏を称〔とな〕えれば、末法の衆生は、何を信じれば良いのか、わからなくなってしまいます。
このように正しかった天台宗の姿を盾に、いくら謗法に染まった天台宗を擁護しても、その謗法の実態は、隠しようもなく、現代の日蓮宗のように、まさに謗法まみれの状態なのです。
しかし、当時の天台宗は、平然と法華経を開会〔かいえ〕すれば、権門も法華経を説いており、小乗と言っても法華経の戒を含むので、いずれも同等であり、また、その理解のしやすさや修行の容易さを考えれば、むしろ優れていると言ってもよいと答えていたのです。
そのような風潮の中であって、日蓮大聖人は、妙法を護持する者としての誇りと自覚を三位房に求められています。
それは、三位房の世俗的な権威に媚〔こ〕び諂〔へつら〕う虚栄と慢心の姿を、厳しく指摘されていることです。
三位房からの手紙の文面に際し、どこかの公家に呼ばれて法門を講じたところ周りから称賛を浴び、それで得意になって夢心地になり、言葉づかいまで京風となったのです。
このように謗法を責めることなく、仏教の当たり障りのない誰も反論しないような部分だけ、まるで道徳のように説くことに対しての訓戒なのです。
それは、いかなる権力や権威に対しても、正しいことを主張され、多くの迫害を受けている大聖人の弟子としての自覚があまりにもなさすぎる軟弱な姿勢であり、逆に大聖人を迫害する人々に同調するがごときの姿勢と見られても無理もないのです。
このような日蓮大聖人の弟子としての自らの立場を忘れて、社会的名誉を第一として「面目をほどこした」と喜んでいる三位房の姿勢を、大聖人は「かたがたせん〔詮〕ずるところ日蓮をいやしみてかけるか」(御書430頁)とまで述べられています。
現在にあっても、仏教者を自認しながら、自らを飾り立てる為に外道を信じる外国からの数多くの勲章や顕彰、あげくは、名誉博士号などを受けたと誇らしげに語って喜んでいる者もいますが、一切衆生を成仏への直道〔じきどう〕に導こうとされる日蓮大聖人からどのような評価を受けるのでしょうか。
このような人は、名聞名利に走るその姿勢から世俗の栄誉からも見放され、大聖人を軽んじた謗法の故に諸天から厳しく処断されるに違いありません。
しかし、名聞名利の影響力は、非常に大きく「総じて日蓮が弟子は京にのぼりぬれば、始めはわすれぬやうにて後には天魔つきて物にくるう」(御書430頁)と最初は、そのようなことで変わらない高潔な人であっても、それが長く続くと次第に虚栄と虚飾の華麗な世界に酔いしれ、変わっていくことを述べられています。
かつての比叡山・延暦寺で法華経を学んだ、法然、栄西、親鸞、道元などの高名な仏教者も、そうであり、また、大聖人の弟子の少輔房が、その先例であると言われています。
少輔房については、詳しいことは、不明ですが、建治2年(西暦1276年)7月21日の弁殿御消息には「念仏者真言師になりて無間〔むけん〕地獄に堕ちぬ。のと〔能登〕房はげんに身かたで候ひしが、世間のをそろしさと申し、よく〔欲〕と申し、日蓮をすつるのみならず、かたき〔敵〕となり候ひぬ。せう〔少輔〕房もかくの如し。」(御書998頁)とあり、この頃に退転し、すでに亡くなった人物と思われます。
また、翌年の建治3年5月15日の上野殿御返事には「日蓮が弟子にせう〔少輔〕房と申し、のと〔能登〕房といゐ、なご〔名越〕えの尼なんど申せし物どもは、よく〔欲〕ふか〔深〕く、心をく〔臆〕びゃう〔病〕に、愚痴にして而も智者となのりしやつばら〔奴原〕なりしかば、事のを〔起〕こりし時、たよ〔便〕りをえ〔得〕ておほ〔多〕くの人をおとせしなり。」(御書1123頁)とあり、また、弘安2年(西暦1279年)10月1日の聖人御難事にも「なごへ〔名越〕の尼・せう〔少輔〕房・のと〔能登〕房・三位房なんどのやうに候をく〔臆〕びゃう〔病〕、物をぼへず、よく〔欲〕ふかく、うたが〔疑〕い多き者どもは、ぬ〔塗〕れるうるし〔漆〕に水をかけ、そら〔空〕をき〔切〕りたるやうに候ぞ。」(御書1398頁)とあるように、退転者の例として挙げられています。
少輔房を「欲深く臆病であり、愚かなのに智者を名乗る」と指摘されており、おそらく、この人も三位房と同じく京へ上って修学したものと思われます。
すでに真言の邪義に犯された比叡山・延暦寺に学ぶべきものなど何もないのですが、それでも、ここに登って天皇の僧侶の認可がなければ、正式の沙門(僧侶)となれないのが当時の習わしだったのです。
この当時、妊娠した女性の胎内の子供を男子として生まれさせるという祈祷が盛んに行われており、平家物語第三巻によると治承2年(西暦1278年)正月、第80代・高倉天皇の皇后である建礼門院が懐妊の折に、皇子の誕生を願って天台宗の座主の覚快法親王が変成・男子〔へんじょう・なんし〕の法を修したと記されています。
天台宗寺門派の僧・隆弁は、宝治元年(西暦1247年)に鎌倉の鶴岡八幡宮の責任者である別当に任じられ、将軍や執権〔しっけん〕の為に祈祷〔きとう〕を行い、本抄で「隆弁なんどは自歎する事かぎりなし」(御書430頁)と述べられています。
この隆弁が何の為に七八百余人の真言師とともに東寺・天台の大法・秘法を尽して祈祷したかは、定かではありませんが、しかし、その結果は「むなしくなりぬ」と述べられているので、おそらく失敗したのでしょう。
加えて、禅宗や律僧なども一緒になって祈祷をしましたが、結果は、何もありませんでした。
大聖人が、間違った邪宗でいくら祈っても無駄であると言ったことに、これらの祈祷の当事者が「人が真剣に祈っているのにそれを非難するとは、なんと冷酷非道な僧か」と批判したのは、容易に想像できるのです。
しかし現実は、厳しく、その祈祷の効果は、まったく現れなかったのです。
そもそも祈祷で人々の願いが叶うと考えること自体が、釈迦牟尼仏の説いた仏教の考えから遠く離れた外道・婆羅門〔ばらもん〕の教義なのであって、日蓮大聖人は、三三蔵祈雨事において「日蓮仏法をこゝろみるに、道理と証文とにはすぎず。」(御書874頁)と破折されているのです。
そもそも真言宗は、日本においては、弘法大師空海や真言宗中興の祖で真言に念仏を取り入れた覚鑁〔かくばん〕などが有名ですが、その源は、東インドの善無畏〔ぜんむい〕三蔵が中国に入唐したことにより始まったのです。
善無畏三蔵は、天台大師が亡くなって119年後に玄宗皇帝に国師として迎えられ、中国に初めて密教を伝え、大日経七巻など種々の密教経典を翻訳したのです。
同時代の金剛智三蔵、不空三蔵とともに、これを真言宗の三・三蔵と呼ばれます。
善無畏三蔵が大日経を翻訳したころ、中国の仏教界では、すでに天台大師の一念三千が確立されていたのです。
その為、善無畏三蔵は、天台宗の学僧だった一行阿闍梨〔いちぎょう・あじゃり〕が数学・歴法に詳しく玄宗皇帝に召されていることを利用して、自らの弟子にして、善無畏三蔵の大日経の翻訳を筆受したのです。
これを「一行筆受の相承〔ひつじゅのそうじょう〕」と言います。
その後、善無畏三蔵の密教の教義に天台円宗の一念三千の趣意を入れて大日経疏〔しょ〕全20巻を著わし、大日経は、一念三千の理・印・真言を含む三密相応の経文であるので法華経以上の最高の経文であると主張したのです。
このように、もともと大日経には、なかった一念三千を盗んで、大日経の訳書にそれを入れて、また、その解説書を作ったのです。
それを見て日本の真言宗の開祖・弘法は、教法としても大日経が最も優れ、法華経は、華厳経よりも劣ると決めつけ、天台の一念三千は、大日真言から盗んだものであるという邪義を立てたのです。
また、根来〔ねごろ〕寺の覚鑁〔かくばん〕は、釈迦牟尼仏などの三世諸仏は、大日如来の車を引く牛にもならないと述べ、ましてや顕教の僧侶が真言師に優るわけもなく釈迦や顕教の僧は、弘法大師の車を引く牛の牛飼いにしか過ぎないなどと主張しているのです。
このように悪口の限りを尽くして法華経を愚弄する真言に対し天台宗が第三代・慈覚大師以降、この理同事勝の邪義に誑惑〔おうわく〕され、密教を取り入れてしまったことを「師子の中の虫師子をくらう。仏教をば外道はやぶりがたし、内道の内に事いできたりて仏道を失〔うしな〕ふべし。仏の遺言なり」(御書433頁)と述べられているのです。
あたり前のことですが「法華宗の人が法華経の題目南無妙法蓮華経とはとな〔唱〕えずして、南無阿弥陀仏と常に唱へば、法華経を失ふ者なるべし。」(御書431頁)と言う事なのです。
ここで日蓮大聖人が文の上では、天台宗への破折であるのに、なぜ「南無阿弥陀仏」を出されているのかについては、確かに延暦寺では、修行の為に念仏を称えては、いたのですが、日享〔にちこう〕上人は、安国論御勘由来の解題で「此の如く叡山を尊重せられる等の事は仏教国史の常説であるが、其の裏面には権教の題目(弥陀念仏)の流布するは実経の題目(法華経の題目)の流布する先序である」と述べられています。
このような状態で天台宗の祈祷が叶うとは、思えず、また今世の小事である祈祷が叶わないのに成仏の大事が叶うはずもないのです。
そのことを厳しく比叡山・延暦寺で指摘するように三位房に指示されているのです。
日蓮大聖人御在世時代には、真言宗は、大別すると二つの流派に分かれていました。
いわゆる東寺の真言と叡山の真言です。
「東寺」は、桓武天皇が平安京鎮護〔ちんご〕の為に羅城門の左右に東西両寺を建てたことに始まるとされています。
その後に弘法大師が東寺を嵯峨〔さが〕天皇から賜〔たまわ〕って、真言密教の根本道場となったもので、この流れを「東密」と言います。
弘法大師は、法華経を応身仏である釈迦が説いた顕教であるとし、法身仏である大日如来の説いた密教に比べると、その利益は、はるかに劣るとあからさまに誹謗したのです。
「天台宗」の真言は、天台宗が立てた密教のことです。
最初、伝教大師は、法華経を根本に密教の儀式を取り入れましたが、第三代・座主の慈覚、第五代・座主の智証は、法華経と大日経は、理においては、同じであるが、事相においては、大日経の方が優れているという「理同事勝」を主張したことから、これを「台密〔たいみつ〕」と言います。
伝教大師の時代には、中国で流行していた密教が、まだ日本には、なく、それを取り入れることが国家として求められていました。
もともと密教とは、陀羅尼〔だらに〕のことで法華経にも陀羅尼品があるように、古代インドでは、陀羅尼とは、もともとは、記憶して忘れないという意味であり、仏教を修行する者が覚えておかなくてはならない教えや作法などを指したのですが、それが時を経るにつれて変質し、仏の教えを声に出して記憶に残し、また、それを声に出すことによって悪を防ぐ「能持・総持」のことになったのです。
それを中国においては、梵語のまま、それを陀羅尼〔だらに〕と呼び、その声に出す呪文のことを陀羅尼咒〔だらにじゅ〕と言いました。
それが、まだ日本にないことから、日本の指導者たちは、それを仏教の呪文と誤解して、何か神秘的な力があるとして、それを中国から取り入れるように迫ったのです。
しかし、その内実は、単に仏教の儀式や、それに使う道具、そのときに言う定型文のことで、仏教の本義には何の意味もないことだったのです。
その時に伝教大師と同じく中国の唐に渡った弘法大師が、その密教を使って日本の支配者階級に取り入って天皇を始め貴族階級の歓心を得て、東寺を手に入れた為に、この真言密教が急速に力を持ち始め、最終的には、天台宗そのものが、この弘法大師の密教を取り入れたのです。
それと言うのも中国の唐に入った伝教大師は、天台山に登って、すぐに写経を始め、十分に真言密教を学ぶ時間がなく、大都市の長安を見ることもなく日本に帰って来てしまったので、帰国後、長安で密教を学んだ空海(弘法)に密教の経典を借りたいと申し出たのですが、空海は、密教は、経を読めばわかるものではないと言って断ったのです。
伝教大師は、弟子の中で一番期待していた泰範〔たいはん〕を空海の元に送り、自身の代わりに密教を学ばせようとしましたが、結局、泰範自身が高野山に残り、空海の弟子となったのです。
そのことに対し伝教大師は、泰範〔たいはん〕に手紙を送ったのですが、答えは、空海の代筆で「真言の教えが天台よりも優れている」と言う内容と「伝教の元に帰るつもりはない」と言うものでした。
その為、日本の南都六宗派の僧たちは「最澄未だ唐都(長安)を見ず」と言って、伝教大師は、いまだ仏教の本流である長安の真言密教を知らないと非難したのです。
日蓮大聖人は、この批判に対し「皆法華経のゆへなればはぢならず。愚人にほめられたるは第一のはぢなり」(御書577頁)と述べられています。
しかし、当時、すでに国際都市であった長安を実際に見聞して、あらゆる最新知識を仕入れた空海に対し、天台山の荒寺で経文の書写に打ち込んだ最澄の帰国後の立場が、この批判が元となって鮮明になり、天台宗が急速に密教化してしまったのです。
ただし、この天台宗が密教に変質せず、伝教大師の教え通り法華最勝の大乗戒壇であったとしても、もともと法華経・迹門の像法時代の戒壇であって、観心本尊得意抄には「設〔たと〕ひ天台・伝教の如く法のまゝありとも、今末法に至っては去年の暦の如し。何〔いか〕に況んや慈覚より已来、大小権実に迷ひて大謗法に同ずるをや。然る間像法の時の利益も之無し。増して末法に於てをや」(御書914頁)と述べられています。
伝教大師が著〔あらわ〕した「山家学生式〔がくしょうしき〕」では、天台法華宗の僧侶が学ぶべき修行規定と受けるべき大乗戒を明らかにしたものです。
これは、比叡山・延暦寺に大乗戒壇である根本中堂が建立されて、南都の東大寺の小乗戒壇から大乗戒壇へと戒壇が移った重要な証拠なのです。
この「山家学生式」は、「弘仁9年(西暦818年)5月13日の天台法華宗・年分・学生式(六条式)」、「同年8月27日の勧奨・天台宗・年分・学生式(八条式)」、「翌年(西暦819年)3月15日の天台法華宗・年分度者回小向大式(四条式)」の三部からなり、いずれも第52代・嵯峨〔さが〕天皇に上奏されました。
本抄の文章は、この「天台法華宗・年分・学生式(六条式)」から要点をとって書き記〔しる〕されたものです。
ここでは、天台法華宗の僧侶は、毎年二人の年分度者を出して大乗戒を授けることとし、その者は、叡山内で十二年間、止観業(法華)と遮那業(真言)を修学することを定め、その修学の度合いに応じて選ばれるものとしています。
つまり天台法華宗の僧侶に、止観と真言に両業〔ごう〕を分けて修学させていたことが分かるのです。
また、同じく弘仁12年(西暦821年)に著した「顕戒論縁起上巻」には、新たに天台法華宗を加えることを朝廷に上奏した文の中で各宗派の年分度者数を定めて「華厳宗に二人、天台法華宗に二人」と記〔しる〕されています。
また同書には「天台の業に二人」とあり、真言を「天台法華宗」「天台の業」の中に位置づけているのです。
これらの文章に依っても、伝教大師は、真言を天台法華宗の中の一部分として取り扱い、一宗派として認めていなかったことが明白なのです。
この基本方針は、慈覚大師・円仁の時代にも受け継がれており、嘉祥元年(西暦848年)6月15日の格で、慈覚が朝廷に上奏した文章に「伏して天台宗の本朝に伝わることを尋ぬれば(略)延暦廿四年(略)廿五年特天台の年分度者二人を賜う。一人は真言の業を習わし、一人は止観の業を学す(略)然れば則ち天台宗の止観と真言との両業は是れ桓武天皇の崇め建つる所」とあります。
このことからも天台宗・比叡山では、真言を「宗派」として認めていなかったことが明らかなのです。
天台法華宗は、天台大師の止観を「骨格」とし、根本として、真言は、止観を理解させる為の「肉付け」としての手段としたのです。
しかし、それが後世になると弘法大師の立てた真言宗が大きな力を持つようになり、それに影響されて、天台宗の中で真言密教の勢いも増して台密となったのです。
この張本人は慈覚大師でしたが、先の引用文にみられるように慈覚の心の中には、まだ真言を一宗派として認める気持ちは、なかったのです。
しかし、それが真言を天台宗の一分とするためであったにせよ、理同事勝の邪義に迷って法華経より真言密教を上位に置いた誤りは責任重大なのです。
それ故に大聖人は、これを「師子身中の虫」と断じられているのです。
このように比叡山の正法が滅失した為に第六天の魔王が便りを得て、念仏の法然や禅宗の大日房能忍〔だいにちぼう・のうにん〕などの身に入り、宗教に無知な上下万民を誑惑して、天変地夭が相次いでいるのであり、そして、この法然や大日房などを橋渡しとして、第六天の魔王が王臣や叡山三千人の大衆の身に入っているから、師壇の仲が不和となり、どんなに祈祷しても験〔しるし〕がなく、祈祷の結果が現れないから、結局、叡山三千人の大衆は、朝廷をはじめ信者から完全に見捨てられてしまったのです。
諸天善神を呼び戻す為には、正直でなければなりません。
その正直とは、法華経の行者である日蓮大聖人以外には、いないのです。
法華経方便品の「正直捨方便」との言葉通りに正直に方便を捨てて法華経を信じ、仏説の通り法難にあっているのは、日蓮大聖人だけであるからなのです。
法華経のみを信受、行じることが真の正直となるのです。
それ故に故最明寺入道に向かって立正安国論をもって「禅宗は、天魔の所為である」と言って「他国侵逼難〔たこく・しんぴつのなん〕」を知らせたからなのです。
この他国侵逼難が、すでに的中していることから「いまだ顕はれざる後をしるを聖人と申すか。日蓮は聖人の一分にあたれり。(中略)日蓮を此の国に用ひずばいかんがすべきと、なげかれ候なりと申せ。」(御書435頁)と述べられ、日蓮大聖人が末法の御本仏にあたることを三位房に示されて、大聖人以外に、この日本を救う者がいないことを訴えるべきことを指示されて本抄を終えられています。