御書研鑚の集い 御書研鑽資料
諸宗問答抄 第3章 禅宗を破折
【次に禅宗の法門は、或は教外〔きょうげ〕別伝〔べつでん〕・】
次に禅宗の法門は、あるいは「教外〔きょうげ〕別伝〔べつでん〕、
【不立〔ふりゅう〕文字〔もんじ〕と云ひ、或は仏祖不伝と云ひ、】
不立〔ふりゅう〕文字〔もんじ〕字」と言い、あるいは「仏祖不伝」と言い、
【修多羅〔しゅたら〕の教は月をさす指の如しとも云ひ、】
「修多羅〔しゅたら〕の教は、月をさす指のようなものである」とも言い、
【或は即身即仏とも云ひて文字をも立てず、仏祖にも依〔よ〕らず、】
あるいは「即身即仏」とも言って、経文の文字を立てずに、仏祖にも依〔よ〕らず、
【教法をも修学せず、画像木像をも信用せずと云ふなり。】
教法を修学せず、画像、木像をも信用せずということを言っているのです。
【反詰〔ほんきつ〕して云はく、仏祖不伝にて候はゞ何ぞ月氏の二十八祖・】
しかし、それならば、なぜ、仏祖不伝と言いながら、どうしてインドの二十八祖や
【東土の六祖とて相伝せられ候や。其の上迦葉〔かしょう〕尊者は何ぞ】
中国の六祖に相伝したのでしょうか。そのうえ、迦葉尊者は、どうして
【一枝の花房を釈尊より授けられ、微笑〔みしょう〕して心の一法を】
一枝の花房を釈尊から授けられて、微笑〔ほほえ〕んで心の一法を
【霊山〔りょうぜん〕にして伝へたりとは自称するや。】
霊山〔りょうぜん〕で伝えたと自称するのでしょうか。
【又祖師無用ならば、何ぞ達磨大師を本尊とするや。】
また、祖師は、無用と言うならば、どうして達磨大師を本尊とするのでしょうか。
【修多羅の法無用ならば何ぞ朝夕の所作に真言陀羅尼〔だらに〕をよみつるぞや、】
修多羅の法が無用であるなら、どうして朝夕に真言陀羅尼を読むのでしょうか。
【首楞厳〔しゅりょうごん〕経・金剛経・円覚経等を或は談じ読誦するや。】
どうして首楞厳〔しゅりょうごん〕経や金剛経、円覚経を読誦するのでしょうか。
【又仏菩薩を信用せずんば、何ぞ南無三宝と】
また、仏、菩薩を信用しないと言うのであれば、どうして南無三宝と
【行住坐臥〔ざが〕に唱ふるやと責むべきなり。】
常、日頃、唱えるのでしょうかと、このように言って責めるべきです。
【次に聞き知らざる言を以て種々申し狂はゞ云ふべし。】
次に、それは、記憶にないと言って、しらばっくれるならば、こう言いなさい。
【凡そ機には上中下の三根あり。随って】
およそ、機根には、上根、中根、下根の三根があるのです。したがって
【法門も三根に与へて説く事なり。禅宗の法門にも理致〔りち〕・機関・向上とて】
法門も三根に分けて説くのです。禅宗の法門も、理致〔りち〕、機関、向上と言って
【三根に配して法門を示され候なり。御辺は某〔それがし〕が機をば三根の中には】
三根に分けて法門を示されています。あなたは、私が三根の中では、
【何れと意得〔こころえ〕て、聞き知らざる法門を仰せられ候ぞや。】
いずれの機根のことであると思って、記憶にない法門などと言われるのでしょうか。
【又理致の分か、機関の分か、向上の分に候かと責むべきなり。】
理致か、機関か、向上なのか、このように言って責めるべきです。
【理致と云ふは下根に道理を云ひきかせて、禅の法門を知らする名目なり。】
理致〔りち〕というのは、下根に道理を言い聞かせて、禅の法門を教える名前です。
【機関とは中根の者には何〔いか〕なるか本来の面目〔めんもく〕と問へば、】
機関とは、中根の者に本来の面目とは、どのようなものであるかと問われると
【庭前の柏樹子〔はくじゅし〕なんど答へたる言〔ことば〕づかひをして、】
「前庭の柏樹子〔はくじゅし〕である」などと意味のわからない言葉使いで答えて、
【禅法を示す様〔よう〕なり。向上と云ふは上根の者の事なり。此の機は】
禅法を教えるのです。向上と言うのは、上根の機根の者のことであり、これらには、
【祖師よりも伝へず、仏よりも伝へず、我として禅の法門を悟る機なり。】
祖師、仏からも法門を伝えず、自分自身の機根によって、禅の法門を悟るのです。
【迦葉〔かしょう〕霊山微笑〔みしょう〕の花に依って心の一法を】
迦葉尊者が霊鷲山で微笑〔ほほえ〕んで、花によって心の一法を
【得たりと云ふ時には、是尚〔なお〕中根の機なり。所詮禅の法門と云ふ事は、】
得たと言うのは、中根の機根になります。所詮、禅の法門と言うのは、
【迦葉一枝の花房を得たりしより以来〔このかた〕出来せる法門なり。】
迦葉が一枝の花の房を授けられたということから、生まれた法門ですが、
【抑〔そもそも〕伝へし時の花房は木の花か、草の花か。】
そもそも伝えたときの花の房は、木の花か、草の花か、青か黄か赤か白か黒か、
【五色の中には何様なる色の花ぞや。又花の葉は何重の葉ぞや。】
五色の中では、どの色の花なのか。また、その花の葉は、何重の葉なのか、
【委細に之を尋ぬべきなり。此の花をありのまゝに云ひ出だしたる】
詳しく、これを尋ねるべきで、この花の事を、ありのままに説明できる
【禅宗有らば、実に心の一法をも一分得たる者と知るべきなり。】
禅宗があるならば、実に心の一法を、多少、得たものであると言うべきですが、
【設ひ得たりとは存知〔ぞんち〕すとも真実の仏意には叶ふべからず。】
しかし、たとえ得たといっても、真実の仏意には、かなうことはないのです。
【如何となれば法華経を信ぜざる故なり。此の心は法華経方便品の】
なぜならば、法華経を信じていないからなのです。この意味は、法華経の方便品の
【終はりの長行〔じょうごう〕に委〔くわ〕しく見えたり。】
長行の終わりに詳しく説かれているのです。
【委しくは引いて拝見し奉るべきなり。次に禅の法門は何〔いかん〕としても】
詳しく読んで見るべきです。次に禅の法門は、ともかく
【物に著する所を離れよと教へたる法門にて有るなり。】
物に執着することを離れよと教えている法門なのです。
【さと云へば其れは情なり、かうと云ふも其れも情なり。】
左と言えば、それも執着、右と言えば、それも執着と言い、
【あなたこなたへすべり、とゞまらぬ法門にて候なり。】
あちら、こちらへと話が行って、まったく留まらない法門なのです。
【夫〔それ〕を責むべき様は、他人の情に著したらん計りをば沙汰〔さた〕して、】
それを責めるには、他の人が執着することのみを論議して、
【己が情量に著し封ぜらる所をば知らざるなり。】
自分自身が空理空論に執着していることを知らない点です。
【云ふべき様は、御辺〔ごへん〕は人の情計りをば責むれども、】
あなたは、他人の執着ばかりを責めるけれども、
【御辺情を情と執したる情をばなど離れ得ぬぞと反詰〔ほんきつ〕すべきなり。】
その執着に執着していることから、どうして離れないのかと反論すべきなのです。
【凡〔およ〕そ法として三世諸仏の説きのこしたる法は無きなり。】
およそ、三世諸仏が説かずに残している法門は、一法としてないのです。
【汝〔なんじ〕仏祖不伝と云ひて仏祖よりも伝へずとな〔名〕の〔乗〕らば、】
あなたは、仏祖不伝と言って、仏祖から伝わっていないと言うのなら、
【さては禅法は天魔の伝へたる所の法門なり如何。】
それでは、禅法は、天魔が伝えた法門になると思いますが、どうでしょうか。
【然る間、汝断常〔だんじょう〕の二見〔にけん〕を出でず、】
それなのに、あなたの考えは、断見と常見の二見から、出ることがなく、
【無間地獄に堕せん事疑ひ無しと云ひて、】
無間地獄に堕ちることは、疑いないと言って責めるべきなのです。
【何度もかれが云ふ言にて、やゝもすれば己がつまる語なり。】
また、何度も彼らの述べた言葉で、ややもすると彼ら自身が詰まることがあります。
【されども非学匠は理につまらずと云ひて、】
それでも、何も学んでいない愚かな禅の学匠は、道理に詰まっていないと言って、
【他人の道理をも自身の道理をも聞き知らざる間、】
他人の道理も聞かず、自身の発言した道理でさえも、何も知らないのです。
【暗証の者とは云ふなり。都〔すべ〕て理におれざるなり、】
これを暗証するだけの者というのです。彼らは、すべて道理には、折れませんが、
【譬へば行く水にかず〔数〕か〔書〕くが如し。】
それは、水に絵を描くような無意味なものなのです。
【次に即身即仏とは、即身即仏なる道理を立てよと責むべし。】
次に即身即仏と言いますが、それは、どういう道理なのかと責めるべきです。
【其の道理を立てずして、無理に唯即身即仏と云はゞ、】
その道理を立てないで無理に、ただ、即身即仏と言うのは、
【例の天魔の義なりと責むべし。但し即身即仏と云ふ名目を聞くに、】
天魔の義であると責めるべきです。ただし、即身即仏と言う名を聞けば、
【天台法華宗の即身成仏の名目づかひを盗み取りて、】
それは、天台・法華宗の即身成仏の名称を盗み取って、即身即仏と言い、
【禅宗の家につかふと覚えたり。然れば法華に立つる様なる】
禅宗の家で勝手に使っていると思われます。そうであるなら、法華経で説かれる
【即身即仏なるか如何とせめよ。】
即身成仏のようなものであるかどうかと責めるべきです。
【若し其の義無く押して名目をつかはゞ、】
もし、その義がなく、強いて即身即仏という名前だけを使うならば、
【つかはるゝ語は無障碍〔むしょうげ〕の法なり。】
その使われる言葉は、何の意味もなく、どのようにでもなるのです。
【譬へば民の身として国王と名乗らん者の如くなり。如何に国王と云ふとも、】
例えば、卑しい身分の者が国王を名乗り、いくら周りに、そう言ったとしても、
【言には障〔さわ〕り無し。己が舌の和〔やわ〕らかなるまゝに云ふとも、】
言葉だけなら問題は、ないのです。自分の舌の思うに任せて、そう言ったとしても、
【其の身は即ち土民の卑しく嫌はれたる身なり。】
その身は、変わらず、卑しく嫌われる身分に過ぎないのです。
【又瓦礫〔がりゃく〕を玉と云ふ者の如し。】
また、石や瓦を宝石と言う者と同じで、いくら石や瓦を宝石であると言っても、
【石瓦を玉と云ひたりとも、曾〔かつ〕て石は玉にならず。】
石や瓦が宝石になったことは、一度もないのです。
【汝が云ふ所の即身即仏の名目も此くの如く有名無実なり。】
あなたが言うところの即身即仏の名前も、名前だけあって、実が無いのです。
【不便〔ふびん〕なり不便なり。次に不立〔ふりゅう〕文字〔もんじ〕と云ふ。】
実に哀れなことです。次に不立〔ふりゅう〕文字〔もんじ〕と言いますが、
【所詮文字と云ふ事は、何なるものと心得此〔か〕くの如く立てられ候や。】
文字と言うことは、どのようなものと心得て、不立文字を立てているのでしょうか。
【文字は是〔これ〕一切衆生の心法の顕はれたる質〔すがた〕なり。】
文字と云うのは、一切衆生の心法が顕われた形なのです。
【されば人のかける物を以て其の人の心根を知って相〔そう〕する事あり。】
それ故に人の書いたものをもって、その人の心根を知ることが出来るのです。
【凡そ心と色法とは不二の法にて有る間、かきたる物を以て其の人の貧福をも】
心法と色法とは、不二の関係にあるので、書いたもので、その人の貧福を
【相するなり。然れば文字は是一切衆生の色心不二の質なり。】
見ることができ、そのように見れば、文字は、一切衆生の色心不二の姿なのです。
【汝若し文字を立てざれば汝が色心をも立つべからず。】
あなたが、もし文字を立てなければ、あなたの色心も立てることはできないのです。
【汝六根を離れて禅の法門一句答へよと責むべきなり。】
自分の六根を離れて、禅の法門の一句でも答えてみせよと責めるべきです。
【さてと云ふも、かうと云ふも、有〔う〕と無〔む〕との二見をば離れず。】
有ると言っても、無いと言っても、有見と無見の二見を離れることはないのです。
【無むと云はゞ無の見なりと責めよ、有と云はゞ有の見なりと責めよ。】
無と言えば、無見であると責め、有ると言ったら、有見であると責めるべきです。
【何れも何れも叶はざる事なり。次に修多羅の教は】
いずれも真理には、かなっていないのです。次に修多羅〔しゅたら〕の教えは、
【月をさす指の如しと云ふは、月を見て後は】
月をさす指のようなものであるというのは、真実の月を見た後は
【徒〔いたずら〕者〔もの〕と云ふ義なるか。若し其の義にて候はゞ、】
指は、無用であるとの意味なのでしょうか。もし、そのような意味であるなら、
【御辺の親も徒者と云ふ義か。又師匠は弟子の為に徒者か、】
親も無用という意味でしょうか。また、師匠は、弟子の為に無用なのでしょうか。
【又大地は徒者か、又天は徒者か。】
また、大地は、草木に無用でしょうか。また、天は、大地にとって無用でしょうか。
【如何となれば父母は御辺を出生するまでの用にてこそあれ、】
なぜならば、父母は、あなたが出生するまでは、有用であっても、
【御辺を出生して後はなにかせん。】
あなたを出生してからは、無用となるからです。
【人の師は物を習ひ取るまでこそ用なれ、習ひ取って後は無用なり。】
師匠は、物事を習い極めるまでは、有用でも、習い終われば、無用であるのです。
【夫〔それ〕天は雨露〔うろ〕を下すまでこそあれ、雨ふりて後は天無用なり。】
天は、雨や露を降らすまでは、有用ですが、雨が降ったら無用です。
【大地は草木を出生せんが為なり、】
大地は、草木を生やす為のものです。
【草木を出生して後は大地無用なりと云はん者の如し。】
草木を生やした後は、大地は、無用であると言っているようなものです。
【是を世俗〔せぞく〕の者の譬へに、喉〔のんど〕過ぎぬればあつさわすれ、】
これを世俗の者の譬えに「喉元、過ぎれば、熱さを忘れ、
【病愈〔い〕えぬれば医師〔くすし〕をわすると云ふらん。】
病〔やまい〕愈〔い〕えれば、薬師を忘れる」とあるのと同じでなのです。
【譬へに少しも違はず相似たり。所詮修多羅と云ふも文字なり。】
譬えと少しも違わないのです。所詮、修多羅〔しゅたら〕と云うのも文字なのです。
【文字は是三世諸仏の気命〔いのち〕なりと天台釈し給へり。】
「文字は、三世諸仏の命である」と天台大師は、解釈されています。
【天台は震旦の禅宗の祖師の中に入りたり、】
天台大師は、中国・禅宗の祖師の中に入っています。
【何ぞ祖師の言を嫌はん。其の上御辺の色心なり。】
どうして祖師の言葉を嫌うのでしょうか。その上、文字は、あなたの色心なのです。
【凡そ一切衆生の三世不断の色心なり。】
一切衆生の三世にわたって続く色心なのです。
【何ぞ汝本来の面目を捨てゝ不立文字と云ふや。】
どうして本来の面目を捨てて不立文字というのでしょうか。
【是昔移宅〔わたまし〕しけるに、我が妻を忘れたる者の如し。】
これは、あたかも家を移るときに、我が妻を家に忘れてしまう者と同じなのです。
【真実の禅法をば何としてか知るべき。】
これで、どうして真実の禅法を知ることができるでしょうか。
【哀れなる禅の法門かなと責むべし。】
哀れなる禅の法門であろうかと責めるべきです。