日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑽資料


諸宗問答抄 第2章 開会の法門


【次に絶待妙と申すは開会〔かいえ〕の法門にて候なり。此の時は】
次に、絶待妙というのは、開会の法門のことです。このときには、

【爾前権教とて嫌ひ捨てらるゝ所の教を皆法華の大海におさめ入るゝなり。】
爾前・権教と否定し捨てたところの経文を皆、法華の大海に、おさめ入れるのです。

【随って法華の大海に入りぬれば爾前の権教とて嫌はるゝ者無きなり。】
したがって法華経の大海に入れば爾前の権教といって否定されるものでは、なく、

【皆法華の大海の不可思議の徳として、】
すべて法華経の大海の不可思議な徳として、

【南無妙法蓮華経と云ふ一味のあぢはいにたゝきなしつる間、念仏・戒・真言・】
南無妙法蓮華経という一味にしてしまうのですから、念仏、律、真言、

【禅とて別の名言を呼び出だすべき道理曾〔かつ〕て無きなり。】
禅と云う別の名で呼ぶような道理は、全くないのです。

【随って釈に云はく「諸水海に入れば同一〔どういつ〕鹹味〔かんみ〕、】
したがって、法華玄義第三下巻に「諸水、海に入れば、同一の塩味なりと。

【諸智〔しょち〕如実智〔にょじっち〕に入らば本の名字を失ふ」等と釈して、】
諸智〔しょち〕如実智〔にょじっち〕に入れば、本の名字を失す」などとあり、

【本の名字を一言も呼び顕はすべからずと釈せられて候なり。】
もともとの名字で一言でも、呼んでは、ならないと解釈されているのです。

【世間の人、天台宗は】
しかし、何も知らない世間の人々や解釈を曲げて理解する天台宗の者は、

【開会の後は相待妙の時斥〔きら〕ひ捨てられし所の】
この事について「開会の後は、相待妙の時に否定して捨てて来た

【前四味の諸経の名言を唱ふるも、又諸仏諸菩薩の名言を唱ふるも、】
前四味の諸経の名前を唱えることも、また、諸仏、諸菩薩の名称を唱えることも、

【皆是〔これ〕法華の妙体〔みょうたい〕にて有るなり。】
すべて、これが法華経の妙体〔みょうたい〕である」などと自分勝手に述べ、

【大海に入らざる程こそ各別〔かくべつ〕の思ひなりけれ。】
「大海に入らないうちは、それぞれ異なる名前の川であるが、

【大海に入りて後に見れば日来〔ひごろ〕よしわるしと】
大海に入った後では、それまで、正しいとして肯定し、

【嫌〔きら〕ひ用ひけるは大僻見〔だいびゃっけん〕にて有りけり。】
悪いと言って否定していたのは、非常に間違った見方であることが分かる。

【嫌はるゝ諸流も、用ひらるゝ冷水も、源はたゞ大海より出でたる】
否定された各宗派の流れも、肯定されていた清い宗派の水も、

【一水にて有りけり。然れば何れの水と呼びたりとても、】
もとをただせば、同じ大海から出た水であるから、どの川の水と言ったとしても、

【たゞ大海の一水に於て別々の名言をよびたるにてこそあれ、】
ただ大海の水を異なった名前で呼んでいるに過ぎないのである。

【各別各別の者と思ひてよぶにこそ科〔とが〕はあれ、】
異なったものとして名前を呼ぶことにこそ問題があるのであって、

【只大海の一水と思ひて何れをも心に任せて】
ただ、同じ大海の水と思って、いずれも自由に心のままに、

【有縁に従って唱へ持つに苦しかるべからずとて、】
その人の縁に従って、唱えれば、良いのである」と言って、

【念仏をも真言をも何れをも心に任せて持ち唱ふるなり。】
念仏でも、真言でも、全く心に任せて唱えているのです。

【今云ふ、此の義は与へて云ふ時はさも有るべきかと覚ゆれども、】
この言い分は、与えていうときには、そうでもあろうと思われますが、

【奪って云ふ時は随分堕地獄の義にて有るなり。】
奪っていうときには、間違いなく地獄に堕ちる原因となるのです。

【其の故は縦〔たと〕ひ一人此〔か〕くの如く意得〔こころえ〕、】
それは、たとえば、ひとりの人が、このように正法を知った上で、」

【何れをも持ち唱ふるとても、万人此の心根〔こころね〕を得ざる時は、】
いずれの教えを唱えるにしても、万人が、この意味を理解していないときには、

【只例の偏見〔へんけん〕・偏情〔へんじょう〕にて持ち唱ふれば、】
ただ、独断と偏見で唱えていることと同じに過ぎないので、

【一人成仏するとも万人は皆地獄に堕つべき邪見の悪義なり。】
一人は、成仏したとしても、万人は、すべて地獄に堕ちる悪いことなのです。

【爾前に立つる所の法門の名言と其の法門の内に談ずる所の道理の】
爾前教によって立てる法門の名前と、その法門のうちに説かれている道理とは、

【所詮とは、皆是〔これ〕偏見・偏情によりて「邪見の稠林〔ちゅうりん〕、】
所詮、すべて、これは、独断と偏見であって法華経方便品に「邪見の林をさまよい、

【若〔も〕しは有〔う〕若しは無〔む〕等に入り」の権教なり。】
また、有ると言ったり、また、無いと言う」と権教について説かれています。

【然れば此等の名言を以て持ち唱へ、】
したがって真実の仏智の正法に反して、これらの名前を唱え持〔たも〕つならば、

【此等の所詮の理を観ずれば偏〔ひとえ〕に心得たるも】
これらの道理を理解していれば、正法を信じて爾前教を唱えている者も、

【心得ざるも皆大地獄に堕つべし。心得たりとて唱へ持ちたらん者は、】
正法を信じずに唱えている者も、結局のところは、皆、大地獄に堕ちるのです。

【牛跡〔ごしゃく〕に】
真言、念仏、禅、律などを唱えている者は、爾前教である「牛の足跡に溜まる水」を

【大海を納めたる者の如し。是〔これ〕僻見の者なり、】
正法である法華経の「大海の水」と言い張るような、非常に間違った見方なのです。

【何ぞ三悪道〔さんなくどう〕を免れん。】
これで、どうして三悪道を免〔まぬが〕れることができるでしょうか。

【又心得ざる者の唱へ持たんは本より迷惑の者なれば、】
また、正法を心得ない者が爾前教を唱えるのは、初めから正法を疑う者であって、

【邪見権教の執心〔しゅうしん〕によて無間大城に入らんこと疑ひ無き者なり。】
邪見による権教への執着心によって、無間地獄に入ることは、疑いないのです。

【開会〔かいえ〕の後も麁教〔そきょう〕とて嫌〔きら〕ひ捨てし悪法をば、】
開会〔かいえ〕の後にも、粗雑な教えといって、否定し捨てた悪法や、

【名言をも所詮の極理をも唱へ持って交ゆべからずと見えて候。】
その経文の名前や、その本尊の名前を唱え、妙法と交えては、ならないのです。

【弘決に云はく「相待・絶待倶〔とも〕に】
止観輔行伝弘決〔しかんぶぎょうでんぐけつ〕第二巻には「相待・絶待ともに

【須〔すべから〕く悪を離るべし。円に著する尚〔なお〕悪なり。】
すみやかに悪を離れるべし。円に執着す、なお悪なり。

【況んや復〔また〕余をや」云云。】
ましてや、また、余教においておや」と述べられています。

【文の心は相待妙の時も絶待妙の時も倶に須く悪法をば離るべし。】
この文の意味は「相待妙の時も絶待妙の時も、すぐに悪法から離れるべきである。

【円に著する尚悪し、】
爾前の円に執著することは、なおさら悪なのである。

【況んや復余の法をやと云ふ文なり。】
ましてや、他の蔵教、通教、別教については、当然である」ということなのです。

【円と云ふは満足の義なり、余と云ふは欠減〔けつげん〕の義なり。】
この円と云うのは、満足の意味であり、他と云うのは、欠けるという意味なのです。

【円教の十界平等に成仏する法をすら著したる方を悪ぞと嫌ふ。】
十界平等に成仏する円教の法であっても、他に執着することを悪と嫌うのです。

【況んや復十界平等に成仏せざるの悪法の欠けたるを以て執著をなして、】
まして十界が平等に成仏しない欠陥だらけの悪法に執着して、

【朝夕〔ちょうせき〕受持・読・誦・解説・書写せんをや。】
朝夕に、受持、読誦、解説、書写したりすることにおいては、なおさらなのです。

【設〔たと〕ひ爾前の円を今の法華に開会し入るゝとも、】
たとえ、爾前の円教を今の法華経の円教に開会して入れたとしても、

【爾前の円は法華と一味となる事無し。】
爾前の円教は、法華教と同一になることはないのです。

【法華の体内に開会し入れられても、】
法華経の体内に開会して入れられても、

【体内の権と云はれて実とは云はざるなり。】
体内の権と言われるのであって、体内の実とは、言わないのです。

【体内の権を体外に取り出だして、且〔しばら〕く「一仏乗に於て分別して】
その体内の権を体外に取り出して「一仏乗において、分別して

【三と説く」とする時、権に於て】
声聞乗、縁覚乗、菩薩乗の三乗と説く」とするとき、権教において、

【円の名を付けて三乗の中の円教と云はれたるなり。】
しばらく、円教の名前をつけて、三乗の中の円教としたのです。

【之に依って古〔いにしえ〕も金杖〔こんじょう〕の譬へを以て】
このようなことは、過去にも金の杖〔つえ〕のたとえをもって

【三乗にあてゝ沙汰する事あり。】
声聞乗、縁覚乗、菩薩乗の三乗に、あてて論じたことがありました。

【譬へば金の杖を三つに打ちをりて、一つづつ三乗の機根に与へて、】
例えば、金の杖〔つえ〕を三つに折って、一つずつ三乗の機根に与えて、

【何れも皆金なり、然れば何ぞ同じ金に於て差別の思ひをなして】
「いずれも、すべて金であり、同じ金なのに名前の違いがあるとして、

【勝劣を判ぜんやと談合したり。】
どうして優劣を決めるのであろうか」という議論なのです。

【此〔これ〕はうち聞く所はさもやと覚えたれども、】
このことは、ちょっと聞くと、もっともに聞こえるのですが、

【悪しく学者の心得たるなり。】
それは、悪しき学者の、まったくの心得え違いなのです。

【今云ふ、此の義は譬へば法華の体内の権の金杖を、】
それに対しては、こう言うべきです。この義は、例えば法華経の体内の権の金杖を、

【仏三根にあてゝ体外に三度うちふり給へる】
仏は、上根、中根、下根の三根にあてて、体外に三度、打ち振られたのですが、

【其の影を、機根が見付けずして、皆真実の思ひを成して】
その影を衆生は気づかずに、皆、真実であると思って、

【己が見〔けん〕に任せたるなり。其れ真実には金杖を打ち折りて】
勝手に解釈しているのである。真実は、金の杖を打ち折って、

【三つになしたる事が有らばこそ、今の譬へは合譬〔がっぴ〕とはならめ。】
三つにしたのであれば、今の譬えは、法と合っていると言えますが、そうではなく、

【仏は権の金杖〔こんじょう〕を折らずして三度ふり給へるを、】
仏は、体内の権の金杖を折らないで三度、振られただけなのを、

【機根ありて三つに成りたりと執著し心得たるは、】
それを理解しない機根の者によって三つになったと思い違いし執着したのです。

【返す返す不心得の大邪見なり、大邪見なり。】
これは、返す返す不心得えの、大邪見であるのです。

【三度振りたるも法華の体内の権の功徳を、体外の三根に配して】
しかも、三度、振ったというのは、法華経の体内の権の功徳を、体外の三根に配して

【三度振りたるにてこそ有れ、全く妙体不思議の円実を振りたる事無きなり。】
三度、振ったまでで、妙体である不思議の円実を振ったのでは、ないのです。

【然れば体外の影の三乗を体内の本の権の本体へ開会〔かいえ〕し入るれば、】
したがって体外の影の三乗を体内のもとの権の本体へ開会〔かいえ〕し入れるので、

【本の体内の権と云はれて、全く体内の円とは成らざるなり。】
本の体内の権と言われても、全く体内の円とは、ならないのです。

【此の心を以て体内体外の権実の法門をば意得〔こころえ〕弁ふべき者なり。】
この心をもって法華経の体内・体外の権実の法門を心得えるべきなのです。



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