御書研鑚の集い 御書研鑽資料
五人所破抄 第三章 未曾有の大漫荼羅
【次に上行菩薩は本極法身・微妙深遠にして】
次に上行菩薩は、至極の法身にして凡人の智慧では、知り得ない境地であり、
【寂光に居すと雖も、未了の者の為に事を以て理を顕はす。】
常寂光土に住していますが、未だ法華経の実義を理解していない衆生の為に、
【地より涌出したまひて以来】
地涌の湧出の姿、形によって永遠の真理を顕わし、地より涌出され、それ以来、
【付を本門に承〔う〕け、時を末法に待ち、生を我が朝〔ちょう〕に降し】
付嘱を本門に受け、時を末法に待ち、生を我が日本に現し、
【訓を仮字に示す。】
その尊い教えを衆生が理解できる仮名文字で御教示されたのです。
【祖師の鑑機失無くんば、】
祖師、日蓮大聖人の末法の衆生の機根のとらえ方に誤〔あやま〕りがなければ、
【遺弟の改転定めて恐れ有らんか。】
その遺弟〔ゆいてい〕達が仮名文字を改めることは、誠に恐れ多いことなのです。
【此等の所勘に依って浅智の仰信を致すのみ。】
このように考えて、智慧の浅い者は、ひたすら信じ、仰〔あお〕ぐのみなのです。
【仰〔そもそも〕梵漢の両字と扶桑の一点とは時に依り機に随って】
そもそも、インドの梵字、中国の漢字と日本の仮名文字は、時により、機根により、
【互ひに優劣無しと雖も、】
使い方を変えるのであって、それぞれの文字自体に優劣などは、ないのです。
【倩〔つらつら〕上聖被下の善巧を思ふに殆〔ほとんど〕ど】
よくよく、日蓮大聖人が凡夫を教化される手段の巧みさを考えるならば、
【天竺震旦の方便に超へたり。】
インドや中国の文字よりも日蓮大聖人の用いた仮名文字の方が優れているのです。
【何ぞ倭国の風俗を蔑如して必ずしも漢家の水露を崇重せん。】
どうして日本の仮名文字を蔑視して、中国の漢字を重んじる必要があるでしょうか。
【但し西天の仏法東漸の時、既に梵音を飜じて倭漢に伝ふるが如く、】
ただし、インドの仏法が次第に東方に伝わって行った時、すでに梵語を翻訳して、
【本朝の聖語も広宣の日は】
日本に伝えられたのと同様に、日本の大聖人の金言も広宣流布する時には、
【亦仮字を訳して梵震に通ずべし。】
また仮名文字を翻訳して、インド、中国に流通すべきなのです。
【遠沾の飜訳は諍論に及ばず。】
教えを流布する為に飜訳をするべきことは、論じるまでもないことですが、
【雅意の改変は】
ただ、自分勝手な主張をする為に仮名文字を漢字に改変することについては、
【独り悲哀を懐く者なり。】
私自身が、ひとり大聖人の弘教を考え、悲しい思いを抱〔いだ〕いているのです。
【一、又五人一同に云はく、先師所持の釈尊は】
また、六老僧の内の五人一同が主張するには、先師が所持していた釈迦像は、
【忝くも弘長配流の昔より弘安帰寂の日に到るまで】
もったいなくも弘長元年の伊豆流罪から、弘安五年の御入滅の日に至るまで
【随身せり、何ぞ輙〔たやす〕く言ふに及ばんや云云。】
身近に所持されており、どうして、それを軽んじる事ができるかと言うものです。
【日興が云はく、諸仏の荘厳同じと雖も印契〔いんげい〕に依って】
それに日興一人の主張は、諸仏の姿が立派であることは、同じですが、印契によって
【異を弁ず。如来の本迹は測り難きも】
仏の違いを区別することができ、仏の本迹の相違は、推し測り難いのですが、
【眷属を以て之を知る。】
左右に並ぶ脇士の違いによって、これを知ることができるのです。
【所以に小乗三蔵の教主は迦葉阿難を脇士と為し、伽耶始成の迹仏は】
従って、小乗教の教主は、迦葉、阿難を脇士とし、始成正覚の大乗の迹仏には、
【普賢文殊左右に在り、】
普賢菩薩、文殊菩薩などの迹化の菩薩が脇士として左右にいるのです。
【此の外の一体の形像豈〔あに〕頭陀の応身に非ずや。】
これ以外の釈迦の一体仏の像は、生活上の修業をしている姿をした応身であり、
【凡そ円頓の学者は広く大綱を存して網目を事とせず。】
およそ、円頓の学者は、広く、その大網を修め、些細な網目には、とらわれずに、
【倩聖人出世の本懐を尋ぬれば、源〔みなもと〕権実已過の化導を改め、】
日蓮大聖人の出世の本懐を考えれば、過去の権教、実教の化導を改め、
【上行所伝の乗戒を弘めんが為なり。】
上行菩薩として、付嘱を受けた妙戒を弘通されることにあったのです。
【図する所の本尊は亦〔また〕正像二千年の間〔あいだ〕】
日蓮大聖人が弘安二年に御図顕された本尊は、また、正法、像法二千の間、
【一閻浮提の内未曾有の大漫荼羅なり。】
世界中に、未だかつて現れたことがない未曽有の大漫荼羅なのです。
【今に当たっては迹化の教主既に益無し、】
末法、今時においては、法華経・迹門の教主である釈尊は、すでに利益はなく、
【況んや□々婆和〔たたばわ〕の拙仏をや。】
まして、小乗教の応身仏に利益があるはずがないのです。
【次に隋身所持の俗難は】
日蓮大聖人の一体仏を随身所持しておられたという言い分について言えば、
【只是継子一旦の寵愛、】
これは、ちょうど、義理の子供を一時的に愛するようなものであり、
【月を待つ片時の蛍光か。】
また、月が出るまでの片時の間、蛍の光を見ているようなものでしょう。
【執する者は尚強ひて帰依を致さんと欲せば、】
それでも、なお、釈迦像に執着し、どうしても仏像に帰依したいと願うのであれば、
【須〔すべから〕く四菩薩を加ふべし、敢へて一仏を用ゆること勿れ云云。】
当然、四菩薩を加えて脇士とすべきであり、あえて一体仏を用いては、なりません。
【一、又五人一同に云はく、富士の立義の為体〔ていたらく〕】
また、六老僧の内の五人一同が主張するには、日興が立てている教義は、
【啻〔ただ〕に法門の異類に擬するのみに匪〔あら〕ず、】
単に法門の方向が自分たちと異っているだけではなく、
【剰へ神無の別途を構ふ。】
神社に神などいないという、まったくの別の主張を構えているのである。
【既に以て道を失ふ、誰人か之を信ぜんや。】
これは、すでに道理に外れたことで、誰がそのようなことを信じるであろうか。
【日興が云はく、我が朝は是】
それに日興一人の主張は、我が国は、摩訶止観六巻下に「和光同塵は結縁の始め
【神明和光の塵、】
(略)名づけて化と為す、また名ずけて応と為す」とあるように諸天善神が衆生の
【仏陀利生の境なり。】
煩悩の塵に同じて、その威光の姿を変化して応じ、仏が国中の利益を及ぼすのです。
【然りと雖も今末法に入って二百余年、御帰依の法は】
しかし、今、末法に入って二百余年が経ち、人々が帰依しているのは、
【爾前迹門なり。誹謗の国を】
爾前教であり、法華経・迹門なのです。このような正法誹謗の国を諸天善神が
【棄捨するの条は経論の明文にして先師の勘ふる所なり、】
捨て去ることは経論に明らかであり、また日蓮大聖人が主張されたところなのです。
【何ぞ善神聖人の誓願に背き、新たに悪鬼乱入の社壇に詣でんや。】
この諸天善神が仏の法華守護の誓願に背いて、悪鬼が乱入している社殿に参詣して
【但し本門流宣の代、垂迹還住の時は、】
良いことがあるでしょうか。ただし、法華経が流布し、諸天善神が還られた時には、
【尤も上下を撰んで鎮守を定むべし云云。】
その時こそ、上下の格式を選んで、仏法守護の社殿を定めるべきでしょう。
【一、又五人一同に云はく、如法・】
また、六老僧の内の五人一同が主張するには、法華三部経を書写する如法経、
【一日の両経は共に以て法華の真文なり、】
大勢で一日で法華経を書写してしまう一日経の両方ともに大事な修行である。
【書写読誦に於ても相違有るべからず云云。】
また、経典を書写し読誦することは、経文に相違するものではない。
【日興が云はく、如法・一日の両経は】
日興が言う。如法経、一日経の両経は
【法華の真文たりと雖も、】
法華経の真実の経文を書写する修業ではあるといっても、
【正像転時の往古、平等摂受の修行なり。】
それは正法、像時代という過去における摂受の修行である。
【今末法の代を迎へて折伏の相を論ずれば】
今は末法の時代を迎え折伏を行ずべきであり、その在り方を論ずるならば、
【一部読誦を専らとせず。】
法華経一部八巻を読誦するのではなく、
【但五字の題目を唱へ、三類の強敵を受くと】
ただ題目の五字を唱え、たとえ三類の強敵による難を受けても、
【雖も諸師の邪義を責むべき者か。】
諸師の邪義を責めるべきである。
【此則ち勧持不軽の明文、】
このことは、法華経の勧持品や常不軽菩薩品に明確に説かれているところであり、
【上行弘通の現証なり。】
上行菩薩の再誕として出現され弘教された日蓮大聖人が現証で示されたのである。
【何ぞ必ずしも折伏の時摂受の行を修すべけんや。】
どうして折伏すべき時に摂受の修行をしてよいことがあるだろうか。
【但し四悉の廃立二門の取捨宜しく時機を守るべし、】
ただ四悉壇の廃立も、摂受、折伏の二門の取捨も、時と機根を考えるべきであり、
【敢へて偏執すること勿れ云云。】
あえて一方に偏って持戒か破戒かで論議しあっている。
【一、又五人の立義既に二途に分かれ戒門に於て】
また五人の立てている教義は、すでに日昭方と日朗方の二つに分かれており、
【持破を論ず云云。】
戒について持戒か破破かで論議しあっている。
【日興が云はく、夫〔それ〕波羅提木叉〔はらだいもくしゃ〕の用否・】
それに日興一人の主張は、そもそも出家の戒律を用いるべきなのでしょうか。
【行住四威儀の所作、平嶮は時機に随ひ】
行住坐臥の四種の威儀の行いは、その時代の人々の機根によって異なり、
【持破に凡聖有り。】
また、戒を持つかどうかも、凡人と聖人では、違いがあるのです。
【若し爾前迹門の尸羅を論ずれば一向に制禁すべし。】
爾前教や法華経・迹門の戒を論じれば、それらは、すべて禁止すべきなのです。
【法華本門の大戒に於ては何ぞ又依用せざらんや。】
法華経・本門における戒については、それは、用いるべきなのです。
【但し本門の戒体の】
ただし、法華経・本門に説かれる戒の正体が、どのようなものかについては、
【委細の経釈面を以て決すべし云云。】
教典、書釈に詳しく書かれており、実際に会って決定すべきなのです。
【一、身延の群徒猥〔みだ〕りに疑難して云はく、富山の重科は専ら当所の】
身延にいる者が、次のような批判をしています。富士にいる日興の罪は、そもそも
【離散に有り。縦〔たと〕ひ地頭非例を致すとも】
身延を離山したことである。たとえ地頭の波木井殿が過〔あやま〕ちを犯すとも、
【先師の遺跡を忍ぶべきに、】
先師の遺跡があるので、それに耐え忍んで留まるべきであったと言うのです。
【既に御墓に参詣せず、】
そういうことで日興の弟子は、もはや先師・日蓮大聖人の墓にも参詣していない。
【争でか向背の過罪を遁〔のが〕れんや云云。】
どうして、師匠に背く重罪を逃れることができるだろうかと言うものです。
【日興が云はく、此の段□〔てん〕倒の至極なり、】
それに日興一人の主張は、彼らの言い分は、転倒の極みであり、今更、身延離山の
【言語に及ばずと雖も未聞の輩に仰せて】
正否について改めて言う必要もないが、いまだ、聞ていない人もいるでしょうから、
【毒鼓の縁を結ばん。夫身延興隆の元由は】
毒鼓の縁を結ぶ為に述べておきましょう。そもそも、身延の興隆の起こりは、
【聖人御座の尊貴に依り、】
日蓮大聖人が、そこに居られて、弟子を教化された尊い場所であったからであり、
【地頭発心の根源は日興教化の力用に非ずや。】
また、地頭の波木井氏が日蓮大聖人に帰依したのも、日興の教化に依るのです。
【然るを今下種結縁の最初を忘れて】
ところが身延の者は、日興が波木井実長に下種し、縁を結んだという最初を忘れて
【劣謂〔れつい〕勝見〔しょうけん〕の僻案を起こし、】
日向などの劣った教えを日興の立義よりも優れていると間違った考えを起こし、
【師弟有無の新義を構へて】
自分は、日興の弟子ではないとか、日蓮大聖人の直弟子だから、同列であるなどと
【理非顕然の諍論を致す。】
自分勝手な主張を構え、明らかに道理に合わない暴論を述べているのです。
【誠に是〔これ〕葉を取って其の根を乾かし、流れを酌んで】
誠に、これは、葉に水をかけて根を枯らし、流れる水を汲みながら
【未だ源を知らざる故か。何に況んや慈覚智証は即ち伝教入室の】
末だ源を知らないのと同じことなのです。ましてや、慈覚、智証は、伝教大師の
【付弟、叡山住持の祖匠なり。】
直弟子であり、比叡山の寺々を建てた人々なのです。
【若宮八幡は亦百王鎮護の大神、日域朝廷の本主なり。】
また、鎌倉の若宮八幡は、天皇を守護すると誓った神であり、朝廷の根本なのです。
【然りと雖も明神は仏前に於て謗国捨離の願を立て、】
同時に、この神は、釈迦牟尼仏の前で謗法の国は、捨て去るとの誓願を立てており、
【先聖は慈覚を指して本師違背の仁と称す。】
日蓮大聖人は、慈覚を指して伝教大師に違背した人であるとされているのです。
【若し御廟を守るを正と為さば】
もし日蓮大聖人の墓を守りさえすれば、よいのであれは、比叡山に住して伝教大師の
【円仁所破の段頗〔すこぶ〕る高祖の謬誤なり。】
墓を守った慈覚大師・円仁を破折した大聖人は、大きな誤りをしたことになります。
【非例を致して過無くんば、其の国】
また、仏法に背く振る舞いをしても、罪とならないのであれば、正法誹謗の国を
【棄捨の誓ひ都〔すべ〕て垂迹の不覚か。】
捨て去るとの請願は、すべて仏の垂迹としての諸天善神の間違いとなるでしょう。
【料〔はか〕り知んぬ、】
このように考えてみれば、すぐ分かるように謗法の国においては、
【悪鬼外道の災ひを作し宗廟社稷〔そうびょう・しゃしょく〕の処を辞す、】
悪鬼、外道が災難をもたらし、守護の善神や社廟は、国を捨てて天上に還るのです。
【善神聖人の居は即ち正直正法の頂なり。】
諸天善神、聖人賢人の住居は、正しく正法を護持する者の頭上にこそあるのです。
【抑〔そもそも〕身延一沢の余流未だ法水の清濁を分かたず、】
そもそも、身延の流れを汲む人々は、未だ仏法の正邪を分別できないでいるのです。
【強ひて御廟の参否を論ずるは汝等将〔まさ〕に】
強いて日蓮大聖人の墓への不参加を論じるのであれば、身延の者は、まさに
【砕身の舎利を信ぜんとす。】
全身の舎利である法華経を信じず、砕身の舎利を信じようとしているのであって、
【何ぞ法華の持者と号せんや、】
法華経を受持する者と、どうして言えるでしょうか。
【迷暗尤も甚し。之に准じて知るべし。】
実に頑迷、甚〔はなは〕だしいのです。これに準じて、次の例を理解してください。
【伝へ聞く天台大師に三千余の弟子有り、】
伝え聞くところでは、天台大師には、三千余人の弟子がいましたが、
【章安朗然として独り之を達す。】
章安大師一人だけが、誤〔あやま〕りなく、すべてを理解することができたのです。
【伝教大師は三千侶の衆徒を安〔お〕く、義真以後は其れ無きが如し。】
伝教大師にも三千人の弟子がいましたが、義真の後は、弟子なしに等しいのです。
【今日蓮聖人は万年救護の為に六人の上首を】
今、日蓮大聖人は、衆生を末法万年にわたって救斉する為に、六人の本弟子を
【定む、然りと雖も法門既に二途に分かれ】
定められましたが。しかしながら、大聖人の法門は、すでに正邪の二つに分かれ、
【門徒亦一准ならず。】
門下も、また、一つにまとまることなく分裂している有様です。
【宿習の至り正師に遇ふと雖も】
過去の仏縁によって、せっかく正師である日蓮大聖人に巡り会えたのに
【伝持の人自他弁じ難し。】
法門がわからず、それを誰が正しく伝えているのかが、わからないでいるのです。
【「能く是の法を聴く者此の人亦復難し」と。】
法華経方便品には「よく、この法を聴く者、この人、またまた難し」とあり、
【「此の言若し堕ちなば】
章安大師の私記縁起には「天台大師の教えを書かずに漏らしたならば、
【将来悲むべし」と。】
将来の人が正しい教えが知る事ができず悲しむことになる」と言われている。
【経文と解釈と宛も符契の如し。】
この方便品の文と章安の解釈書は、あたかも割符を合わせたように合致しています。
【迹化の悲歎猶此くの如し。】
迹化の菩薩も正法が信じがたく、堕落しやすいことをこのように嘆かれたのです。
【本門の墜堕寧ろ愁〔うれ〕へざらんや。】
まして法華経・本門の教えが、堕落してしまう事を憂えずにおられましょうか。
【案立若し先師に違はゞ】
日興の考えや主張が、もし日蓮大聖人の意思に少しでも、異なっているとすれば、
【一身の短慮尤も恐れ有り、】
それは、自身の未熟な考えでよるものであって、誠に恐れ多いことであるが、
【言ふ所亦仏意に叶はゞ五人の謬義甚だ憂ふべし。】
私の考えが仏意に叶っていれば、五人の誤りは、明確で非常に憂うべき事なのです。
【取捨正見に任す、思惟して宜しく解すべし云云。】
どちらの説を取るかは、いずれが正しいかを、よく考えた上で解決すべきなのです。