日蓮正宗法華講 開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑚資料


富士一跡門徒存知事・五人所破抄・日興跡条々事・日興遺誡置文
背景と大意


日蓮大聖人は、弘安〔こうあん〕二年(西暦1279年)の戒壇の大御本尊を顕〔あらわ〕され、出世の本懐を遂〔と〕げられた後、弘安四年(西暦1281年)、弘安の役(二回目の元寇)を前にして、鎌倉幕府への諫暁〔かんぎょう〕が功を奏さないことに鑑〔かんが〕み、天皇に対する諫暁〔かんぎょう〕を決意され、朝廷に対して「園城寺申状〔おんじょうじ・もうしじょう〕」を執筆されました。
その上で日興〔にっこう〕上人を京都に送り、この申状〔もうしじょう〕を後宇多天皇に上奏したのですが、さらに大聖人は、翌年の弘安五年(西暦1282年)にも日目〔にちもく〕上人に命じて再度、朝廷に対して上奏をしました。
天皇は、日蓮大聖人の申状を園城寺に検討させた結果、日蓮大聖人の申状に対し「朕〔ちん〕、他日法華を持〔たも〕たば、必ず富士山麓に求めん」と記〔しる〕した「下し文」を下賜〔かし〕しました。
この園城寺申状と朝廷からの下し文は、現存していませんが、日亨〔にちこう〕上人の「富士日興上人詳伝」によると、日興上人が入滅された元弘三年(西暦1333年)の時点では、存在していたとされています。
このことは「日興上人御遺跡の事」「日蓮宗宗学全書」「富士宗学要集」にも著わされているということです。
なお、日蓮大聖人が立正安国論を提出して、鎌倉幕府や朝廷に対して諫暁を行って以来、それに倣〔なら〕って、日興上人も幕府と朝廷への諫暁を行われました。 日興上人の申状で幕府に宛てたものは、正応二年(西暦1289年)一月、元徳二年(西暦1330年)三月、朝廷に宛てたものは、嘉暦〔かりゃく〕二年(西暦1327年)八月の申状が今日まで伝わっていますが、実際の諫暁は、この三回だけでなく、それ以外にも頻繁〔ひんぱん〕に行われたと思われます。
また、幕府や朝廷に対する申状の提出は、日目上人、日道上人などの日興上人の門下によっても行われました。
それは、当時は、民衆に宗教の自由などがなく、権力者による宗教統制が当然のように行われていた時代であって、その権力者への諫暁が、そのまま日蓮大聖人の仏教を弘めることに繋がっていたからなのです。
その為、日興上人以外の五老僧の鎌倉幕府への申状もありますが、それらには、鎌倉幕府への追従に終始し、諫暁の意義などは、、まったく見あたりません。 日蓮大聖人は、この頃、身延において、時には百名を超す門下に対して、法華経の講義を行い、その大聖人の講義を日興上人がまとめたのが「御義口伝」、六老僧のひとりである佐土公・日向〔さどこう・にこう〕がまとめたのが「御講聞書」と伝えられています。 また、その他に「三大秘法口決」「百六箇抄」「御本尊七箇相承」「本因妙抄」などの重要・相伝書が日興上人に授与され、大聖人の己心の奥義〔おうぎ〕がそのまま唯受一人〔ゆいじゅ・いちにん〕の日興上人へと伝えられました。
その日蓮大聖人は、かねてからの病気の療養の為、弘安五年(西暦1282年)九月八日、常陸国(現在の茨城県)へ湯治に向かわれましたが、その旅の途中で身体の衰弱が進み、九月十八日に武蔵国・荏原〔えばら〕郡(現在の東京都大田区)にある池上邸に到着されました。
そこで日蓮大聖人は、地頭の波木井実長〔はきい・さねなが〕に対して「波木井殿御報」(御書1596頁)を執筆されようとしましたが、衰弱の為、筆を執〔と〕ることができず、随行されていた日興上人が大聖人の口述を筆録されたと伝わっています。
その後、日蓮大聖人は「日蓮一期弘法付属書」(御書1675頁)を認〔したた〕められて、すべてを日興上人に付嘱され、十月八日には、日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持の六人を本弟子と定め、十月十三日には、日興上人を身延山・久遠寺の別当〔べっとう〕と定めた「身延山付嘱書」(御書1675頁)を認〔したた〕められて、滞在していた池上邸で御入滅されました。
翌日、葬送と荼毘〔だび〕が行われました。
その葬儀の様子を日興上人は、「宗祖御遷化〔せんげ〕記録」(御書1863頁)に詳しく残されています。
これについては、日興上人の御真筆が現存しています。
弘安六年(西暦1283年)一月、日蓮大聖人の直弟子たちは、身延山で大聖人の百箇日忌〔き〕法要を行いましたが、その折に六老僧を含む門下が、日蓮大聖人の墓所の月番を交代で守護することが定められました。
門下が墓所の月番を交代で守ることは、大聖人の遺言であり、日興上人の真筆が現存する「墓所可守番帳事」が「宗祖御遷化記録」の末尾に付け加えられています。
この「墓所可守番帳事」には、日昭・日朗・日興・日持の直筆の署名がありますが、しかし、この墓所の月番での守護は、形だけで、実際には行われませんでした。
さらに弘安七年(西暦1284年)十月、日興上人は、身延山において日蓮大聖人の三回忌・法要を行いました。
このことは、日興上人の「美作房御返事」や「日蓮宗宗学全書」、日精上人の「家中抄」「富士宗学要集」にあります。
この時期、久遠寺の日興上人は、他の直弟子が墓所の月番を守らないことを非常に残念に思っていたので、弘安八年(西暦1285年)に六老僧の一人である佐土公・日向が身延に登山してきたことを歓び、その日向を久遠寺の学頭にしました。
それは、日興上人の「原殿御返事」「日蓮宗宗学全書」、大石寺の「富士年表」に残っています。
しかし、日興上人と日向の教義的見解の相違は、次第に顕著になってきて、地頭の波木井実長は、日興上人よりも、むしろ学頭の日向の意見に従うようになり、日興上人の再三にわたる注意も無視するようになりました。
その波木井実長の行為とは「釈迦の仏像を造立して本尊にしようとした事」「日蓮大聖人が禁止した神社・参詣〔さんけい〕を行った事」、「念仏の石塔などの謗法に供養した事」などです。
これらは、すべて学頭・日向の指導のもとで行ったことであり、また、他の六老僧の教義的見解に沿〔そ〕うものでもありました。
結局、地頭の波木井実長の姿勢が改まる可能性がないことを見極められた日興上人は、正応〔しょうおう〕二年(西暦1289年)の春、弟子の日目、日秀らとともに身延を離れられました。
その心境を「原殿御返事」では、日興上人を除く日蓮大聖人の弟子たちについて「師敵対」と断じ、日興上人のみが大聖人の正しい教義を保持しているとの思いを込めて「この身延の沢を立ち退くことは、面目なく、残念さは、言葉で言い尽くせませんが、いろいろ考えてみれば、いずれの地であっても、大聖人の法門を正しく受け継いで、この世に流布していくことが、一番大切なことなのです」(主意)と述べられています。
このように日向の影響下にあった波木井実長が、地頭である身延の久遠寺にいたのでは、日蓮大聖人の教義を守ることは、できなくなるとの思いを強めた日興上人は、ついに弘安二年の大御本尊など重宝と共に身延を出られたのでした。
身延を離れた日興上人は、とりあえず幼年期を過ごした河合家に滞在しましたが、まもなく上野郷の地頭・南条時光の要請を受けて南条家に入り、その年の十月、近くの大石が原に新しく寺を建てる事となりました。
建設に当たっては、南条家だけでなく、時光の姉が嫁いでいた伊豆の新田家、甲斐の秋山家などが援助にあたりました。
翌年、正応三年(西暦1290年)十月にようやく新しい寺「大石寺」が完成し、日興上人は、この大石寺を拠点にして弟子の育成と弘教に努めることとなりました。
大石寺での門下・育成の結実として、日興上人は、日蓮大聖人が晩年に本弟子六人を定めた先例に倣〔なら〕い、自身の高弟六人を本弟子に定めました。
その六人とは、日目、日華、日秀、日禅、日仙、日乗の六人です。
その後、永仁〔えいにん〕六年(西暦1298年)、五十三歳の日興上人は、大石寺の経営を南条家出身の日目上人に譲り、大石寺から東へ半里ほど離れた重須〔おもす〕の地(現在の北山本門寺)に弟子育成の為に寺を建てて移り住まわれました。
その建設には、南条家の他、南条時光の姉が嫁いだ重須の地頭・石川家の援助がありました。
この地で日興上人が講義に努めたので、そこは、別名・重須談所と呼ばれ、正安〔しょうあん〕二年(西暦1300年)に六老僧の一人・富木常忍の義理の子の伊予房・日頂〔にっちょう)の弟である富木常忍の実の子の寂仙房・日澄〔にっちょう〕が日興上人に帰伏してきたので、日興上人は、嘉元〔かげん〕二年(西暦1304年)に日澄を重須談所の初代・学頭に任じました。
さらに乾元〔けんげん〕元年(西暦1302年)には、その寂仙房・日澄の兄、伊予房・日頂も日興上人に従順し、重須の北側に小林寺(後の正林寺)を建てて、そこから本門寺に通い、日興上人の活動を助けたと言われています。
さらに日澄の死後、文保〔ぶんぽう〕元年(西暦1317年)、日興上人は、日澄の弟子で比叡山で研鑽を重ねてきた日順を第二代の学頭に任命し、門下の育成に努めた結果、日興上人のもとに多くの僧侶が育ったので、重須時代に成長した僧侶の中で、本弟子、六人を定められました。
大石寺時代に定めた六人の弟子を本六、この重須時代の六人を新六と呼びます。
新六は、日代、日澄、日道、日妙、日郷、日助の六人です。
この本六・新六を中心にした日興門下の弘教は、各地に及び、東北・関東地方から近畿・北陸・山陰・四国・九州まで日興門流が拡大されていきました。

富士一跡門徒存知事〔ふじ・いっせき・もんと・ぞんじのこと〕

富士一跡門徒存知事は、延慶〔えんきょう〕二年(西暦1309年)日興上人が六十四歳の時、富士・重須談所で著作されました。
御真筆は、現存していませんが、永正〔えいしょう〕十八年(西暦1521年)の筆写本が総本山・富士大石寺にあります。
本抄の冒頭に「日興の門葉〔もんよう〕に於ては、此の旨を守って一同に興行せしむべきの状仍〔よ〕って之を録す」(御書1867頁)とあるように、不相伝の輩〔やから〕である五老僧と、日興上人との間における五一の相対(五人と一人の相違)を示され、その法門への解釈の違いを明確にし、後世の為に遺〔のこ〕されたものです。
なお、この五一の相対については、五人所破抄にも記〔しる〕されています。
これは、「日蓮一期〔いちご〕の弘法〔ぐほう〕」を付嘱された日興上人が「先師日蓮は忝〔かたじけな〕くも法華の行者として専ら仏果の直道〔じきどう〕を顕はし、天台の余流」(御書1876頁)と自らを天台沙門と名乗る日昭、日朗、日向、日頂、日持の五老僧の謗法を詳細に記〔しる〕されたものです。
日順の著作した「日順阿闍梨血脈」によれば、当初、日興上人は、晩年を過ごされた重須談所の初代・学頭である日澄〔にっちょう〕に草案の作成を命じられ、その為、この「富士一跡門徒存知の事」の中の「日興集むる所の証文」として挙げられている要文集は、そのほとんどが日澄が著作したものとなります。
その日澄の死後にその草案を元に、日興上人自ら、補筆、修正され、完成されたものです。
大石寺第六十五世・日淳上人は「日淳上人全集」「富士一跡門徒存知事の文に就いて」において、文体に照らして八箇条は、日興上人が加筆されていることがわかると述べられています。
その内容としては、まず五老僧の邪義〔じゃぎ〕を破折して富士門下の正義〔しょうぎ〕を顕わすと共に、波木井実長〔はきい・さねなが〕の四箇の謗法、日興上人の六人の弟子を定める事、大聖人の御影〔みえい〕像の事、十大部御書の選定とその所在、御本尊の事、本門寺を建てるべき場所は、富士山であること、秦聞状の事、日興所立の義を盗み取る輩〔やから〕がいる事などが記〔しる〕されています。
この日興上人と他の五老僧との日蓮大聖人の法門に対する最も大きな違いは、大聖人がその生涯の全てをかけて末法万年・尽〔じん〕未来際の為に遺された御書に対する姿勢であり、五老僧は、大聖人の仮名文字の入った御書を先師の恥辱として焼却しましたが、日興上人は、これを先師の跡を破滅するものと断じられているのです。
それは、日興上人は、先師・日蓮大聖人を末法の御本仏であるとしたのに対し、天台沙門を唱える五老僧は、自らの浅智を顧みることなく、ただの偉大な仏教者としかみていなかったのです。

五人所破抄〔ごにん・しょは・しょう〕
 
五人所破抄は、御真筆は、存在しませんが、北山本門寺蔵の日代の写本、大石寺蔵の日時上人の写本があります。
「日順阿闍梨〔あじゃり〕血脈」によれば「汝、先師(日澄)の蹤跡〔しょうせき〕を追ふてまさに五一の相違を注せよと云云。忝〔かたじけな〕くも厳訓を受けてなまじいに紙上に勒しほぼ高覧に及ぶ」とあり、嘉歴〔かりゃく〕三年七月(西暦1328年)に日興上人が重須談所の二代目学頭・日順に命じられて、前述の日澄が草案作成した「富士一跡門徒存知の事」をもとに、その跡を受け継いで五一相対を明確にする文書を作成するよう指示があり、日順がこの「五人所破抄」を執筆し、日興上人の裁可を得て完成したと考えられています。
事実、現存する「五人所破抄」の日代の写本の末尾には「嘉暦三年七月草案・日順」との自筆の署名があります。
大石寺の「日興上人日目上人正伝」には、日興上人と五老僧が義絶するに至った理由は、日蓮大聖人が末法の御本仏であるとする日興門下の立義を明らかにする為であるとされ、日順に命じて「五人所破抄」を執筆させたとあります。
このことも日順によって「五人所破抄」が草案されたことを裏づけています。

日興跡条々事〔にっこう・あと・じょうじょうのこと〕

元弘〔げんこう〕二年(西暦1332年)十一月十日、第二祖・日興上人から第三祖・日目上人への相伝を記〔しる〕された書です。
それ故に日目上人譲状〔ゆずりじょう〕とも言われます。
御真筆は、元徳〔げんとく〕二年(西暦1330年)の筆と思われる草案と元弘二年(西暦1332年)十一月十日に授与された正本の両方が大石寺にあります。
内容は、三箇条からなり、(1)本門寺建立の時、日目を座主と為す(2)弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝する(3)大石寺は、日目がこれを管領し、広宣流布を待つべきであることが、記〔しる〕されています。

日興遺誡置文〔にっこう・ゆいかい・おきぶみ〕

日興遺誡置文は、日興上人が亡くなられる直前の元弘三年(西暦1333年)一月十三日に日蓮大聖人の弟子、門下が守るべき基本を二十六箇条にわたって記〔しる〕された遺誡書〔ゆいかいしょ〕です。
なお御真筆は、存在しませんが、幾つかの写本が残されており、第六世・日時上人の写本が富士・大石寺にあります。
その冒頭に「富士の立義聊〔いささか〕も先師の御弘通に違せざる事」(御書1884頁)、「五人の立義一々に先師の御弘通に違する事」(御書1884頁)と改めて五一相対を強調されています。
日興上人は、この年の二月七日、永仁〔えいにん〕六年(西暦1298年)以来、三十五年にわたって住まわれた重須の地で入滅され、翌日には、葬儀が行われました。
その模様は、弟子の日郷の「日興上人御遷化次第」として記録されています。



ページのトップへ戻る