御書研鑚の集い 御書研鑚資料
災難興起由来・災難対治抄 背景と大意
「災難興起由来」は、その文中に正元〔しょうげん〕二年(太歳〔たいさい〕庚申〔かのえさる〕)二月上旬とあるように正元2年(西暦1260年)2月上旬、大聖人が39歳の時に御執筆されたものです。
御真筆は、中山法華経寺に現存しますが、残念なことに一部分が欠損しています。
なお、この災難興起由来は、創価学会版日蓮大聖人御書全集には、収録されていません。
大聖人が宗旨を建立された当時は、国中で念仏が大流行していました。
その結果、諸天善神は、その威光を失い、大地震や大旱魃〔かんばつ〕、大飢饉が発生して民衆は、苦しみの真っただ中にいました。
これに対して鎌倉幕府の要人たちは、あらゆる神社仏閣に祈祷を命じましたが、災害は、止まるどころか返って増す一方だったのです。
この災難が発生する由来を諸経に照らして、その対治法を認〔したた〕められた御書が、この災難興起由来であると考えられています。
また、この災難興起由来の直後に、時を同じくして「災難対治抄」を御執筆されています。
この御書は、御真筆が同じく中山法華経寺に現存しており、正元2年(西暦1260年)に著されたという直接の記述はありませんが、文中に「今此の国土を見聞するに種々の災難起こる。所謂〔いわゆる〕建長八年八月より正元二年二月に至るまで、大地震・非時の大風・大飢饉・大疫病等種々の災難連々として今に絶えず、大体国土の人数尽くべきに似たり。」(御書193頁)と正元2年2月までの災難が挙げられていることから、その年の2月後半から3月にかけての御述作であると推察されるのです。
この正元2年は、4月に改元されて文応となった年であり、このように地獄と化した鎌倉の状態を憂い、災難を鎮める為に一刻も早く謗法を止めるべきであると大聖人は、文応元年(西暦1260年)7月16日に鎌倉幕府に「立正安国論」を時の権力者・北条時頼にあてて提出されています。
この立正安国論は、主人と客人の問答という形式を取っており、本抄の形式と同じで本抄が立正安国論の約5カ月前に執筆されていることもあって、執筆にあたって何らかの関係性があると思われます。
災難興起由来において、その問答を見てみると前半が残っておらず、途中の何かの問いの答えから始まっており、その後に九問九答が交〔か〕わされています。
第1問「桀王〔けつおう〕や紂王〔ちゅうおう〕の時代には、仏法がなく、その為に謗法もなかったのに何によって国が滅びたのか」
第1答「道徳に基づいて治められていた時代であり、王がそれに背いたから災難が起こり国が滅びたのである」
第2問「災難が道徳を破って起こるのであれば、選択集〔せんちゃくしゅう〕の流布が災難の原因だとは、言えないのではないか」
第2答「仏法が広まる前の道徳は、仏法の五戒にあたり、現在は、選択集の謗法に依って災難が起こるのである」
第3問「仏法以前の道徳が五戒にあたると、どうして言えるのか」
第3答「諸経典に世の法は、すべて仏法から出ているとあり、仏は、道徳を教え、仏法の初門としたのである」
第4問「選択集を信ずる謗法の者の中に災難にあわない者がいるのはなぜか」
第4答「現世に果報を受ける者と後世に果報を受ける者がいる故である」
第5問「法華経などを信ずる者で災難にあうのはなぜか」
第5答「過去の罪業によって巻き添えになる事があるが、それで罪業を消す事が可能となる」
第6問「災難を止める方法はあるのか」
第6答「謗法の書と謗法の人を取り除くことである」
第7問「謗法を断ち切る方法はあるのか」
第7答「謗法への供養を断つことである」
第8問「布施を止めて僧侶を苦しませるのは、罪にならないのか」
第8答「謗法の者は善根を断ち切っている故に罪にはならない」
第9問「僧の罪を指摘することは、三宝を敬わなければならないという仏の言葉に違背するのではないのか」
第9答「謗法を見過ごす事こそ仏への違背であり、謗法を根絶しなければ、必ず災難が起こると諸経典にある」
災難興起由来は、このように問答形式で、国土に災難が起こる原因とその対治方法が明らかにされています。
まず、最初に仏教が広まる以前の国では、仏の遣〔つか〕いとして外道の聖者が出現し「仁・義・礼・智・信」の五常といった道徳の形で人々に仏教を教えることを説明されています。
また、大聖人は、外典で説く、この五常は、仏法の「不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒」の五戒に当たることを示され、その文証として金光明経や普賢経、涅槃経などを挙げられています。
そして仏法が流布する前の漢土を例に挙げ、夏〔か〕の桀〔けつ〕王や殷〔いん〕の紂〔ちゅう〕王が災難を招いて国を滅亡させたのは、この仏教の初門である道徳を破ったことに起因すると指摘されています。
また大聖人は、国王となる者は、過去に十善戒を修行した因縁によるとされています。
十善戒とは、在家の大乗戒で、小乗の五戒から不飲酒戒を除き、さらに「不綺語・不悪口・不両舌・不貪欲・不瞋恚・不愚癡」の六つを加えたものを言います。
この五戒十善の意義を含む五常を破れば、仏の教えに背くことになり、その結果、過去の悪王たちは、善根を失って滅んでいったのです。
このように五戒を破り、謗法が国に充満すれば、必ず災難が起こるのであり、特に日本に於いて、天変地夭、飢饉、疫病が大流行しているのは、法然が著した「選択集〔せんちゃくしゅう〕」によって、法華経を「捨てよ、閉じよ、閣〔さしお〕け、抛〔なげう〕て」と主張して人々を誑惑し、この念仏の謗法が国中に広まっているからであると指摘されています。
これは、仏に対する十善戒を破るだけでなく、法華経に対する十四誹謗を犯すことにもなります。
まして日本では、すでに末法の御本仏である日蓮大聖人が題目を唱えられていたのですから、時の為政者たちが念仏に帰依すれば、諸天が怒りをなし災難が起こるのは、むしろ当然だったのです。
そして、この一国の災難を止めて衆生を救うには、念仏を止めて、法華経に帰依し、日蓮大聖人を大導師として題目を唱えること以外には、なかったのです。
その為には、謗法の僧侶への供養を止め、謗法を断絶するべきであることを示されて、この災難興起由来を終わられています。
災難対治抄の題号は、冒頭に記〔しる〕されている「災難の根源を知りて対治を加ふべき勘文」(御書191頁)の文章に由来しています。
勘文は「かんがえぶみ」の意味で普通は、朝廷などからの諮問〔しもん〕を受けた儒家・陰陽師などが種々の資料や占いをもとに作った意見書を言いますが、大聖人の場合は、幕府から要請されたわけではありませんが、為政者への諌暁を前提に考察されたので、この言葉を用いられたと拝されます。
また、これは、直前に執筆された「災難興起由来」と同じ意味であり、大聖人の御真筆を拝すると、この「災難興起由来」には、数々の書き直しがあり、また余白の横に文字を書き込まれている個所もあって、草稿されている感じが強く出ています。
それに比べ、この「災難対治抄」は、きれいに清書されており、公〔おおやけ〕に提出される文書の体裁をなしており、したがって御執筆の時期を考え合わせると「災難興起由来」は「災難対治抄」の草稿であった可能性もあります。
特に「災難対治抄」の「疑って云はく、国土に於て選択集を流布せしむるに依って災難起こると云はゞ、此の書無き已前には国中に於て災難無かりしや。」(御書197頁)から後の文章は、「災難興起由来」と表現の違いはありますが、その内容の進め方がほとんど同じであり、しかも「災難興起由来」の前の部分は、失われているので、その部分についても内容的に同じであったことが十分に考えられるのです。
ここで大聖人が法華経と仰せられているのは、三大秘法の御本尊と拝するべきです。
また、その御本尊に題目を唱えても、ただ自身の名聞名利や自己満足の為であっては、何の意味もありません。
あくまでも大聖人と同じく、念仏の一凶を断じて謗法を止め、災難を対治することが肝要なのです。
大聖人を信じているようであっても謗法を犯したり、また世間に妥協して謗法を見て見ぬ振りをして呵責しなければ、過去の罪障を消滅することはできず、自らも災難に巻き込まれてしまうのです。
天台大師は、摩訶止観に「似解〔じげ〕の位は因の疾〔しつ〕少し軽くして道心転〔うたた〕熟す、果の疾猶重くして衆災を免れず」(御書189頁)と言われているように見せかけの法華経への信仰を持つ人は、他の謗法者と共に様々な災難に遭わなければならないのです。
また、日寛上人は「常に心に折伏を忘れて四箇の名言を思わずんば、心が謗法になるなり。口に折伏を言わずんば、口が謗法に同ずるなり。手に珠数を持ちて本尊に向かわずんば、身が謗法に同ずるなり」(日寛上人御書文段608頁)と、謗法厳戒を御教示されています。