日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑽資料


一代聖教大意 第三章 五時八教の中の五時


【次に五時。】
次に天台大師の教判である「五時八教」の中の「五時」について述べます。

【五時とは一には華厳経(結経は、梵網経)、】
五時とは、一には、華厳経(その結経は、梵網〔ぼんもう〕経)を説く時は、

【別円二教を説く。】
別教、円教の二教を説いています。

【二には阿含(結経は、遺教経)、】
二には、阿含経(その結経は、遺教経〔ゆいきょうぎょう〕)を説く時は、

【但三蔵教の小乗の法門を説く。】
ただ、三蔵教の小乗の法門を説いています。

【三には方等経・宝積〔ほうしゃく〕経・観経等の】
三には、方等経、宝積〔ほうしゃく〕経、観無量寿経などの

【説時を知らざる】
説かれた期間が16年間あるいは8年間とされて、不明の

【大乗経なり(結経は、瓔珞経)、】
権大乗経が説かれました(その結経は、瓔珞〔ようらく〕経)。

【蔵通別円の四教を皆説く。】
ただし、蔵教、通教、別教、円教の四教も、それぞれ比較する為に説きます。

【四には般若経(結経は、仁王経)、】
四には、般若経(その結経は、仁王〔におう〕経)を説く時は、大乗教である

【通教・別教・円教の後三教を説き】
通教、別教、円教の依法の四教の内の蔵経以後の三教を説きます。

【三蔵教を説かず。】
蔵教である小乗教の三蔵教は、説きません。

【華厳経は三七日の間の説、阿含経は十二年の説、】
華厳経は、三、七日(二十一日)の間の説、阿含経は、12年の説、

【方等・般若は三十年の説。】
方等経と般若経は、合わせて30年間の説です。

【已上華厳より般若に至る四十二年なり。】
以上、華厳時から般若時に至る期間は、42年です。

【山門〔さんもん〕の義には方等は説時定まらず説処定まらず、】
しかし、延暦寺では、方等経は、説く時も定まらず、説いた場所も定まりません。

【般若経は三十年と申す。】
般若経の説時は、30年であると言います。

【寺門〔じもん〕の義には方等十六年般若十四年と申す。】
三井寺では、方等経の説時は、16年、般若部の説時は、14年と言っています。

【秘蔵の大事の義には】
比叡山の学僧、証真〔しょうしん〕の秘蔵の大事の説には、

【方等・般若は説時三十年。】
方等経、般若経は、説く時が合わせて30年、

【但し方等は前、般若は後と申すなり。】
ただし方等経は、前に説かれ、般若経は、後に説かれたとされています。

【仏は十九出家三十成道と定むる事は大論に見えたり。】
仏が19歳で出家し、30歳で成道したことは、大智度論第3巻に出ています。

【一代聖教五十年と申す事は涅槃経に見えたり。】
釈尊の一代聖教の説時は、50年と言うことは、小乗の涅槃経に出ています。

【法華経已前四十二年と申す事は無量義経に見えたり。】
法華経以前の説時は、42年と言うことは、無量義経に出ています。

【法華経八箇年と申す事は涅槃経の五十年の文と、】
法華経を説いた期間は、8年であることは、涅槃経の50年の文章と、

【無量義経の四十二年の文の間を勘〔かんが〕ふれば八箇年なり。】
無量義経の42年の文章から、期間を考えると8年間になるのです。

【已上十九出家、三十成道、五十年の転法輪〔てんぽうりん〕、】
以上、釈尊は、19歳で出家、30歳の成道、50年の転法輪〔てんぽうりん〕、

【八十入滅と定むべし。】
80歳で入滅と考えるべきです。

【此等の四十二年の説教は皆法華経の汲引〔きゅういん〕の方便なり。】
これらの42年の説教は、すべて、法華経に導く為の方便であるのです。

【其の故は無量義経に云はく「我先に道場菩提樹下にして端坐すること六年、】
その故は、無量義経に「我は、前に道場の菩提樹下に端坐すること、六年にして、

【阿耨多羅〔あのくたら〕三藐三菩提〔さんみゃくさんぼだい〕を】
阿耨多羅〔あのくたら〕三藐三菩提〔さんみゃくさんぼだい〕を

【成ずることを得たり〇】
成ずることを得たり(中略)

【方便力を以て四十余年には未だ真実を顕はさず○】
方便力をもって種々の法を説き、四十余年には、未だ真実を顕さず。

【初めに四諦を説き(阿含経なり)○次に方等十二部経・摩訶般若・】
初めに四諦を説き(阿含経)、次に方等十二部経、摩訶般若〔まかはんにゃ〕、

【華厳〔けごん〕海空〔かいくう〕を説く」文。】
華厳〔けごん〕海空〔かいくう〕を説く」と説かれています。

【私に云はく、説の次第に順ずれば華厳・阿含・方等・般若・法華涅槃なり。】
私見を言えば、説法の順序は、華厳、阿含、方等、般若、法華涅槃となります。

【法門の浅深の次第を列〔つら〕ねば阿含・方等・般若・華厳・】
法門の内容を浅いものから深いものに順序に並べると阿含、方等、般若、華厳、

【法華涅槃と列ぬべし。】
法華涅槃と並べるべきです。

【されば法華経・涅槃経には爾〔そ〕の如く見えたり。】
そうであればこそ、法華経、涅槃経には、この通りに説かれています。

【華厳宗と申す宗は智儼〔ちごん〕法師・法蔵法師・】
華厳宗と言う宗派は、智厳〔ちごん〕法師、法蔵〔ほうぞう〕法師、

【澄観法師等の人師、】
澄観〔ちょうかん〕法師などの人師が、

【華厳経に依って立てたり。】
華厳経を拠〔よ〕り所として、立てたものです。

【倶舎〔くしゃ〕宗・成実宗・律宗は宝法師〔ほうほっし〕・】
倶舎〔くしゃ〕宗、成実〔じょうじつ〕宗、律宗は、唐の法宝〔ほうぼう〕法師、

【光法師〔こうほっし〕・道宣等の人師、】
普光〔ふこう〕法師、道宣〔どうせん〕律師などの人師が、

【阿含経に依って立てたり。】
阿含経に基づく俱舎論、成実論、四分律を拠〔よ〕り所として、立てたものです。

【法相宗と申す宗は玄奘三蔵・慈恩法師等、】
法相宗と言う宗派は、玄奘〔げんじょう〕三蔵、慈恩〔じおん〕法師などが

【方等部の内の上生〔じょうしょう〕経・下生〔げしょう〕経・】
方等部の中の弥勒上生〔みろくじょうしょう〕経、弥勒下生〔みろくげしょう〕経、

【成仏経・深密〔じんみつ〕経・解深密経〔げじんみっきょう〕・】
弥勒大成仏経、深密〔じんみつ〕経、解深密〔げじんみつ〕経、

【瑜伽〔ゆが〕論・唯識論等の経論に】
瑜伽師地〔ゆがしじ〕論、成唯識〔じょうゆいしき〕論などの経論を

【依って立てたり。】
拠〔よ〕り所として、立てたものです。

【三論宗と申す宗は般若経・百論・中論・十二門論・】
三論〔さんろん〕宗と言う宗派は、般若経、百論、中観論、十二門論、

【大論等の経論に依って吉蔵大師立て給へり。】
大智度論などの経論を拠〔よ〕り所として、吉蔵大師が立てられたものです。

【華厳宗と申すは華厳と法華・涅槃は同じく円教と立つ。】
華厳宗と言う宗派は、華厳経と法華経、涅槃経は、同じく円教として立てています。

【余は皆劣ると云ふなるべし。法相宗には深密・解深密経と】
その他の経教は、すべて劣るというのです。法相宗においては、解深密経と

【華厳・般若・法華・涅槃は同じ程の経と云ふ。】
華厳経、般若経、法華経、涅槃経は、同程度の経文であるというのです。

【三論宗とは般若経と華厳・法華・涅槃は同じ程の経なり、】
三論〔さんろん〕宗では、般若経と華厳経、法華経、涅槃経は、同程度の経文で、

【但し法相の依経の諸の小乗経は劣なりと立つ。】
ただし、法相〔ほっそう〕宗の依経や種々の小乗経は、劣るとしています。

【此等は皆法華已前の諸経に依って立てたる宗なり。】
これら諸宗は、すべて法華経以前の諸経を拠り所として、立てられた宗派なのです。

【爾前の円を極〔ごく〕として立てたる宗どもなり。】
つまり、爾前の円を極理として、立てられた宗派なのです。

【宗々の人々の諍〔あらそ〕ひは有れども経々に依って】
このように諸宗の人々は、様々に争っていますが、結局、経文に依って

【勝劣を判ぜん時はいかにも法華経は勝れたるべきなり。】
優劣を論じれば、確かに法華経こそが最も優れているのです。

【人師の釈を以て勝劣を論ずる事無し。】
けっして人師の勝手な解釈をもって、優劣を論じては、なりません。

【五には法華経と申すは開経には無量義経一巻、法華経八巻、】
五には、法華経は、開経として無量義経一巻、法華経八巻、

【結経には普賢経一巻。】
結経として観普賢菩薩行法経一巻で構成されています。

【上の四教四時の経論を書き挙ぐる事は】
これまで、化法の四教、爾前の四時の経論を取り上げてきたのは、

【此の法華経を知らんが為なり。】
ただ、この法華経について理解する為なのです。

【法華経の習ひとしては前の諸経を習はずしては】
法華経を理解する為には、爾前の諸経を比較、検討して調べなくては、

【永く心を得ること莫〔な〕きなり。】
法華経の意義を理解することは、できないものなのです。

【爾前の諸経は一経一経を習ふに】
爾前の諸経については、その一経一経を調べる場合、その意義は、

【又余経を沙汰せざれども苦しからず。】
独立しており、他の経文と比較、検討しなくても、理解できるのです。

【故に天台の御釈に云はく】
それ故に天台大師の法華玄義第10巻には

【「若し余経を弘むるには教相を明らめざれども】
「もし爾前の諸経を弘める際には、一代聖教の教相判釈を明らかにしなくても、

【義に於て傷〔やぶ〕るゝこと無し。】
諸経の教義において、問題になることはない。

【若し法華を弘むるには教相を明らめずんば】
もし、法華経を弘めるには、一代聖教の教相判釈を明らかにしなければ、

【文義欠〔か〕くること有り」文。】
法華経の文義において欠けることあり」と記〔しる〕されているのです。

【法華経に云はく「種々の道を示すと雖も】
法華経方便品に「種々の道を示すといえども、

【其れ実には仏乗の為なり」文。】
それは、実には、仏乗の為なり」と説かれています。

【種々の道と申すは爾前の一切の諸経なり。】
この種種の道というのは、爾前の一切の諸経のことなのです。

【仏乗の為とは法華経の為に一切の経を説くと申す文なり。】
また、仏乗の為とは、法華経の為に、一切の経文を説いているという文章なのです。

【問ふ、諸経の如きは或は菩薩の為、或は人天の為、】
それでは、爾前の諸経は、あるいは、菩薩の為、あるいは、人、天の為、

【或は声聞縁覚の為、機に随って法門もかわり益もかわる。】
あるいは、声聞、縁覚の為、理解力に従って、法門も変わり、利益も変わりますが、

【此の経は何なる人の為ぞや。】
この法華経は、どのような人の為に、説かれたのでしょうか。

【答ふ、此の経は相伝に有らざれば知り難し。】
それは、この法華経は、相伝でなければ、知ることができないのです。

【悪人善人・有智無智・有戒無戒・男子女子、四趣八部、】
所詮、悪人、善人、有智、無智、有戒、無戒、男子、女子、四悪趣、八部衆、

【総じて十界の衆生の為なり。】
これら、すべて十界の衆生の為なのです。

【所謂悪人は提婆達多・妙荘厳王〔みょうしょうごんのう〕・阿闍世王、】
いわゆる悪人は、提婆達多、妙荘厳王〔みょうしょうごんのう〕、阿闍世王、

【善人は韋提希〔いだいけ〕等の人天の人。】
善人は、阿闍世王の母、韋提希〔いだいけ〕などの人界、天界の人、

【有智は舎利弗、無智は須利〔すり〕槃特〔はんどく〕。】
有智は、舎利弗〔しゃりほつ〕、無智は、須利〔すり〕槃特〔はんどく〕、

【有戒は声聞・菩薩、無戒は竜・畜なり。女人は竜女なり。】
有戒は、声聞、菩薩、無戒は、竜、畜生です。また、女人は、竜女です。

【総じて十界の衆生、円の一法を覚るなり。】
総じて、十界の衆生は、法華経によって純円一実の法を悟ることが出来るのです。

【此の事を知らざる学者、法華経は我等凡夫の為には有らずと申す、】
このことを知らない学者が法華経は、我ら凡夫の為ではないと言っていますが、

【仏意恐れ有り。此の経に云はく「一切の菩薩の阿耨多羅三藐三菩提は】
仏意に反する事を恐れるべきです。この法華経に「一切の菩薩の無上正等覚は

【皆此の経に属せり」文。】
すべて、この経の功力による」と説かれているのです。

【此の文の菩薩とは、九界の衆生、善人悪人女人男子、三蔵教の声聞・縁覚・】
この文章の菩薩とは、九界の衆生、善人、悪人、女人、男子、三蔵教の声聞、縁覚、

【菩薩、通教の三乗、別教の菩薩、爾前の円教の菩薩、】
菩薩、通教の三乗、別教の菩薩、爾前の円教の菩薩、

【皆此の経の力に有らざれば仏に成るまじと申す文なり。】
皆、この法華経の力に依らなければ、仏に成ることが出来ないという文章なのです。

【又此の経に云はく「薬王、多く人有りて在家出家の】
また、この法華経に「薬王よ、多くの在家、出家が

【菩薩の道を行ぜんに、若し是〔こ〕の法華経を見聞し】
菩薩の道を修行していると思っていても、もし、この法華経を見聞し、

【読誦し書持し供養すること得ること能はずんば、】
読誦し、書持し、供養しなければ、

【当に知るべし、是の人は未だ善く菩薩の道を行ぜず。】
まさに知るべし、この人は、いまだ菩薩の道を修行せず。

【若し是の経典を聞くこと得ること有らば、】
もし、この法華経を聞くことが出来るならば、

【乃〔すなわ〕ち能善〔よ〕く菩薩の道を行ずるなり」と。】
それは、よく菩薩の道を修行するなり」と説かれています。

【此の文は顕然に権教の菩薩の】
この文章は、明らかに権教の菩薩が、

【三祇百劫・動踰〔どうゆ〕塵劫〔じんこう〕・無量阿僧祇劫の間の】
三阿僧祇百大劫、動踰〔どうゆ〕塵劫〔じんこう〕、無量阿僧祇劫という長い間、

【六度万行・四弘誓願は、】
行じる六度万行、四弘誓願も、

【此の経に至らざれば菩薩の行には有らず、】
この法華経に至らなければ、結局、それは、菩薩の修行ではなく、

【善根を修したるにも有らずと云ふ文なり。】
善根を修したのでもないと云う文章なのです。

【又菩薩の行無ければ仏にも成らざる事も顕然なり。】
また、菩薩の修行がなければ、仏に成らないことも明白なのです。

【天台妙楽の末代の凡夫を勧進する文、】
天台大師、妙楽大師が末代の凡夫に勧〔すす〕めて述べた文章があります。

【文句に云はく「好堅〔こうけん〕、地に処して】
天台大師の法華文句に「好堅樹〔こうけんじゅ〕は、地中にある時、

【芽已〔すで〕に百囲せり。】
その芽は、既〔すで〕に百回、周りを囲むほどの大きさであり、

【頻伽〔びんが〕、(原文では殻の中の几を一の下の卵に変更)〔かいご〕に在って】
迦陵頻伽〔かりょうびんが〕は、卵の殻〔から〕の中の雛〔ひな〕であっても、

【声〔こえ〕衆鳥に勝れたり」文。】
美しい鳴き声は、多くの鳥よりも優れているのである」とあります。

【此の文は法華経の五十展転の第五十の功徳を釈する文なり。】
この文章は、法華経の五十展転の五十番目の功徳を説明している文章なのです。

【仏苦〔ねんご〕ろに五十展転にて説き給ふ事、】
仏が、五十展転の功徳と他の功徳とを比べて、その量を説かれるのには、

【権教の多劫の修行又〔また〕大聖の功徳よりも、】
権教による長い期間の修行や、また、権教の優れた聖人の功徳よりも、

【此の経の須臾〔しゅゆ〕の結縁、愚人の】
この法華経に、しばらくの間でも、縁を結んだ愚かな人の

【随喜の功徳、百千万億勝れたる事〔こと〕】
随喜の功徳の方が、百千万億倍も優れているとされており、

【経に見えつれば】
このことは、法華経随喜功徳品に説かれているので、

【此の意を大師譬へを以て顕はし給へり。】
この趣旨を天台大師が、譬えよって説明されたものなのです。ようするに

【好堅樹と申す木は一日に百囲にて高く生〔お〕ふ。】
好堅樹〔こうけんじゅ〕という木は、一日に百回、周りを囲むほど生長し、

【頻伽と申す鳥は】
迦陵頻伽〔かりょうびんが〕という鳥は、

【幼きだも諸の大小の鳥の声に勝れたり。】
雛〔ひな〕でさえ、諸の大小の鳥の声より優れているのです。

【権教の修行の久しきに諸の草木の遅く生長するを譬へ、】
権教の修行の長いことを、草木が遅く生長するのに譬〔たと〕え、

【法華の行速〔すみ〕やかに仏に成る事を】
法華経の修行で速やかに仏になることを、

【一日に百囲なるに譬ふ。】
好堅樹〔こうけんじゅ〕が一日に百回、周りを囲むほど生長することに譬え、

【権教の大小の聖をば諸鳥に譬へ、】
権教の大小の聖人を鳥に譬〔たと〕え、

【法華の凡夫のはかなきを殻(原文では几は、一の下に卵)の声の】
法華経の初心の凡夫を、迦陵頻伽〔かりょうびんが〕の雛〔ひな〕の美声が

【衆鳥に勝るに譬ふ。】
多くの鳥に優れているのに譬えているのです。

【妙楽大師重ねて釈して云はく】
妙楽大師が法華文句記第10巻に、重ねて説明して

【「恐らくは人謬〔あやま〕りて解せる者、】
「おそらく、他宗の人師が誤って解釈し、

【初心の功徳の大なることを測らずして功を上位に推〔ゆず〕り、】
初心の功徳が広大なことを知らないで、功徳を上位の者に譲り、

【此の初心を蔑る。故に今彼の行浅く功深きことを】
この初心の者を蔑〔あなど〕る。故に初心の凡夫の修行が浅く、功徳が深いことを

【示して以て経力を顕はす」文。】
示すことによって、法華経の功力を顕す」と述べられています。

【末代の愚者は法華経は深理にしていみじけれども、】
末代の念仏宗の愚者が、法華経は、深理であり尊いが、

【我が機に叶はずと云ひて】
我らの低い理解力には、合わないと、

【法を挙〔あ〕げ機を下して】
法を持ち上げ、衆生の理解力を下〔くだ〕して、

【退する者を釈する文なり。】
法華経から退転する者のことについて、述べられた文章なのです。

【又妙楽大師末代に此の法の捨てられん事を歎きて云はく】
また妙楽大師は、末法に、この法華経が捨てられることを嘆〔なげ〕いて

【「此の円頓を聞きて而〔しか〕も崇重せざる者は、】
「この円頓〔えんどん〕の法華経を聞いて、これを尊重しない者が、

【良〔まこと〕に近代に大乗を習へる者の雑濫〔ぞうらん〕するに由るが故なり。】
現在の大乗教を習うことで、我見を乱造することによって起こるのである。

【況んや像末に情澆〔うす〕く信心寡薄〔かはく〕に、】
まして像法、末法の時代になると、徳が薄く、信心のある者が少なくなり、

【円頓の教法、蔵に溢〔あふ〕れ函〔はこ〕に盈〔み〕つれども】
円頓の教法は、経蔵に溢〔あふ〕れ、経を入れる箱に満ちても、

【暫〔しばら〕くも思惟せず便〔すなわ〕ち目を暝〔ふさ〕ぐに至る。】
少しの間でさえも思索しないで、すぐに目を塞〔ふさ〕ぐことになるのです。

【徒〔いたずら〕に生じ徒に死す、一に何ぞ痛ましきや。】
いたずらに生まれ、いたずらに死ぬ。いかに痛ましいことか。

【有る人云はく、聞きて行ぜざらんは、】
ある人が言うには、法華経を聴聞して修行しなければ、

【汝に於て何ぞ預からん。】
あなたになんの利益があろうかと。

【此〔これ〕は未だ深く久遠の益を知らず。】
これは、いまだ深く、法華経の久遠の利益を知らない者のいうことである。

【善住天子経の如きは、文殊・舎利弗に告ぐ、】
善住天子経には、文殊舎利〔もんじゅしり〕菩薩が舎利弗に告げて、

【法を聞き謗を生じて地獄に堕つるは】
正しい法を聞き、誹謗して地獄に堕ちる者は、

【恒沙の仏を供養する者に勝れたり。】
恒河の砂ほどの多くの仏を供養する者より優れていると。

【地獄に堕つと雖も地獄より出で】
なぜなら、地獄に堕ちるといっても、その地獄から出てからは、

【還って法を聞くことを得ると。】
返って、法華経を聞くことができるとある。

【此は供仏〔くぶつ〕し法を聞かざる者を以て】
これは、仏に供養しながら、法を聞かない者と比較して

【而も校量〔きょうりょう〕と為〔せ〕り。】
述べたものである。

【聞いて而も謗を生ずる尚遠種と為〔な〕る。】
法を聞いて誹謗してさえ、法華経に縁した故に下種となる。

【況んや聞いて思惟〔しゆい〕し勤めて修習〔しゅじゅう〕せんをや」と。】
まして、法を聞いて思索し、勤めて学ぶならば、なおさらである」と述べています。

【又云はく「一句も神〔たましい〕に染みぬれば】
また、妙楽大師は「法華経の一句でも心肝に染めれば、

【咸〔ことごと〕く彼岸を資〔たす〕く。】
それは、すべて、仏国土の彼岸に至る助けとなる。

【思惟修習永く舟航に用〔もち〕う。】
法華経における思索、学習は、永く生死の海の航海の船となる。

【随喜〔ずいき〕・見聞〔けんもん〕恒〔つね〕に主伴と為る。】
法華経における随喜、見聞〔けんぶん〕は、常に夫と妻の関係となる。

【若しは取・若しは捨、】
法華経を取るにせよ、捨てるにせよ、

【耳に経て縁と成り、或は順・或は違、】
いずれも耳に聞いたことが結縁となり、法華経に従っても、また背いても、

【終〔つい〕に斯〔これ〕に因って脱す」文。】
最終的には、この法華経に依って成仏するのである」と述べられています。

【私に云はく、若しは取若しは捨】
私見を述べると、この、もしくは取る、もしくは捨てる、

【或は順或は違の文、】
あるいは、従う、あるいは、背くの文章は、法華経の絶大な功力を表したものとして

【肝〔きも〕に銘ずるなり。】
肝に銘〔めい〕じるべき、非常に大事なところです。

【法華翻経〔ほんぎょう〕の後記】
法華伝記第2巻、諸師序集、第六の中の法華翻経〔ほんぎょう〕後記に

【(釈僧肇記)に云はく】
(鳩摩羅什の弟子、僧肇〔そうじょう〕が記す)

【「什(羅什三蔵なり)、姚興〔ようこう〕王に対して曰く、】
「「什(羅什三蔵)が姚興〔ようこう〕王に対して、このように述べた。

【予昔天竺国に在りし時、遍〔あまね〕く五竺に遊んで大乗を尋討し、】
私(羅什)が昔、インドにいた時、広くインドに遊学して大乗教を求め、

【大師須利耶蘇摩〔しゅりやそま〕に従って理味を餐受〔きんじゅ〕するに】
大師、須梨耶蘇摩〔しゅりやそま〕に従って大乗の法理を受けた時に、

【頂を摩〔な〕でて此の経を属累〔ぞくるい〕して言はく、】
師は、私の頭を撫でて、この法華経を相伝して言うのには、

【仏日、西に隠れ遺光〔いこう〕東北を照らす。】
仏の日が西に沈み、残りの光が東北を照らす。

【茲〔こ〕の典、東北諸国に有縁なり】
この経典は、東北の諸国に縁がある。

【汝慎んで伝弘せよ」文。】
羅什よ、慎〔つつし〕んで、法華経を東方に伝え弘めよと」とあります。

【私に云はく、天竺よりは此の日本は東北の州なり。】
私見では、インドから見ると、この日本は、東北の国にあたります。

【慧心の一乗要決に云はく】
比叡山の慧心〔えしん〕僧都〔そうず〕源信の一乗要決に

【「日本一州円機純熟にして、朝野遠近】
「日本一国は、円機、純熟の機根で、朝廷も在野も、遠方も近燐も

【同じく一乗に帰し、緇素〔しそ〕貴賤悉〔ことごと〕く】
同じく法華一乗に帰依し、僧侶も在家も、貴〔とうと〕い人も賎〔いや〕しい者も、

【成仏を期す。】
ことごとく成仏を期すべきである。

【唯一師等あて若し信受せずば】
ただ、法相宗の一師らがいて、もし、法華一乗を信受しないならば、

【権とや為さん実とや為さん。】
法華一乗を権経(嘘)とするのであろうか、実経(真実)とするのであろうか、

【権と為さば貴むべし。】
法華一乗が権経(嘘)とするならば、彼らが正しい事になり、貴ぶべきである。

【浄名〔じょうみょう〕に云はく、】
浄名〔じょうみょう〕経には、

【衆の魔事を覚智して而も其の行に随はざるは】
種々の魔事を覚知して、しかも、その行に従わないのは、

【善力方便を以て意に随って而も度すと。】
善の方便力をもって、衆生の意思に従って、しかも、それで仏教を理解させる。

【実と為さば憐れむべし。】
権経を実経として見誤るならば、憐れむべきことである。

【此の経に云はく、当来世の悪人は仏説の一乗を聞きて】
この経に未来世の悪人は、仏説の法華一乗を聞いても

【迷惑して信受せず、法を破して悪道に堕〔お〕つ」文。】
迷い惑って信受せず、法を破って悪道に堕ちると説かれている」とあります。


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