御書研鑚の集い 御書研鑚資料
一代聖教大意 背景と大意
本抄は、日蓮大聖人が37歳の時、正嘉2年(西暦1258年)2月に駿河国、岩本実相寺において著わされたものです。
日蓮大聖人は、鎌倉の松葉ヶ谷〔まつばがやつ〕の草庵を拠点として弘法をされてきましたが、この間に飢饉〔ききん〕、疫病、地震が次々と起こり、まさに末法の世を思わせる異常な災害の連続であったのです。
大聖人は、このような災難が起きる原因を明らかにする為に、一切経をもう一度、読み直そうとされ、駿河国(静岡県)岩本の実相寺の経蔵に入られたのです。
そこで大蔵経を閲覧されており、その結果、二年後の文応元年(西暦1260年)7月16日に立正安国論をもって、国主諌暁〔かんぎょう〕をなされたのですが、この一切経、五千余巻の閲覧〔えつらん〕の中で、一念三千法門、十如是事、守護国家論を著され、本抄の御述作も、なされたものと思われます。
また、この岩本実相寺において、近くの天台宗、四十九院で修学中であった13歳の日興上人に会われ、弟子にされています。
なお、本抄の御真筆は、有りませんが、日目上人の写本が、保田妙本寺に伝えられています。
この岩本実相寺で一切経を読まれるにあたって、本抄において、釈尊一代の膨大な八万法蔵の経典の大意を述べられ、天台大師の「五時八教」の教判によって、経文を選別、統合し、浅深を分析し、法華経こそが釈尊の出世の本懐であることを明らかにされています。
その法華経とは、妙法蓮華経の略で、開経である無量義経と本経である法華経と結経である観普賢菩薩行法経、いわゆる普賢経との三部からなっています。
また、この法華経は、釈迦の最後の八年間にわたる説法であり、その後にインドにおいて作られた梵語の法華経の原典も、膨大な数にのぼったと伝えられています。
さらに、それが釈迦の滅後において、この膨大な量の原典が、人の手によって簡略化され、手を加えられて略本の梵本ができ、それがインドに流布しました。
それが釈迦滅後、約七百年の間に四回行われたとされる経典の結集においても、混乱と散逸を免〔まぬが〕れなかったのです。
それが、ようやく中国に翻訳されて伝えられました。
その法華経の翻訳本を挙げると、次の六訳となります。
法華経 | 六訳 | 三存 | 訳経 | 巻数 | 国・西暦 | 訳者 |
無量義経 | 無量義経 | 一巻 | 天竺 | 求那跋陀羅 ぐなばっだら | ||
無量義経 | 一巻 | 天竺 | 曇摩伽陀耶舎 どんまかだやしゃ | |||
法華経 | ① | 不存 | 法華三昧経 | 六巻 | 魏 255年 | 正無畏 しょうむい |
② | 不存 | 薩曇分陀利経 さつどんふん だりきょう |
六巻 | 西晋 265年 | 竺法護 じくほうご | |
③ | 現存 | 正法華経 | 十巻 | 西晋 286年 | 竺法護 じくほうご | |
④ | 不存 | 方等法華経 | 五巻 | 東晋 335年 | 支道根 しどうこん | |
⑤ | 現存 | 妙法蓮華経 | 八巻 | 姚秦 ようしん 406年 | 鳩摩羅什 くまらじゅう | |
⑥ | 現存 | 添品法華経 | 七巻 | 隋 601年 |
闍那崛多笈多 じゃなくったぎゅうた 達摩笈多 だるまぎゅうた | |
普賢経 | 賢観経 | 一巻 | 天竺 | 祇多蜜多 ぎたみつた | ||
賢菩薩経 | 一巻 | 亀茲 きじ | 鳩摩羅什 くまらじゅう | |||
観普賢菩薩 行法経 | 一巻 | 天竺 | 曇無蜜多 どんむみった |
六訳三存 | 現存の三本は原典の梵本が異なる | これに経文を記した |
正法華経 |
法護訳は、迂闐〔うてん〕国 (西域の一部)王宮所蔵の 六千五百偈の貝葉〔ばいよう〕本による |
貝葉は多羅樹の葉 |
妙法蓮華経 |
鳩摩羅什は、罽賓〔けいひん〕国 (現カシミール地方)王宮所蔵の 六千偈白氎〔はくちょう〕本による |
白氎は白綿布の類 |
添品法華経 |
崛多等の訳は、六千二百偈の 貝葉〔ばいよう〕本による |
貝葉は多羅樹の葉 |
これらの三本の中では、羅什〔らじゅう〕訳の原典が最も古いとされ、羅什訳の妙法蓮華経八巻二十八品が最も広く流布しており、通常、法華経といえば、この妙法蓮華経をさすのです。
日蓮大聖人も、羅什訳のみが釈迦牟尼仏の真意を伝えているとして、撰時抄に「総じて月支より漢土に経論をわたす人、旧訳〔くやく〕新訳に一百八十六人なり。羅什〔らじゅう〕三蔵一人を除いてはいづれの人々も誤らざるはなし」(御書847頁)と述べられています。
また、この他にも西蔵(チベット)語訳、蒙古(モンゴル)語訳、フランス語訳(ビュルヌフ=Burnouf、1852年)、英訳(ケルン=Kern、1884年)などの訳本があります。
この法華経と他の経文、つまり法華経以前に説かれた爾前教との違いは、爾前教は、悪人と女性、それから、声聞、縁覚の二乗は、永く成仏できないとしたことです。
つまり、法華経が悪人、女性、二乗の即身成仏を説いているのに対して、法華経以外の経文では、長時間の厳しい輪廻〔りんね〕転生〔てんしょう〕の歴劫〔りゃっこう〕修行を説いていることにあります。
以下に小乗三蔵教における三乗の、それぞれに於ける修行期間と利根〔りこん〕、鈍根〔どんこん〕などの機根によっての差を分かりやすく図にすることとします。
三乗 | 機根 | 修行期間 | 長さの順番 |
声聞 | 鈍根 | 三生 | ⑤五番目に長い |
利根 | 六十劫 | ③三番目に長い | |
最上利根 | 一生 | ⑥一番短い | |
縁覚 | 鈍根 | 四生 | ④四番目に長い |
利根 | 百劫 | ②二番目に長い | |
菩薩 | 一向凡夫 | 四弘誓願を発願し、六度万行を修する。 三阿僧祇百大劫 | ①一番長い |
この図で分かる通り、修行期間は、声聞よりも縁覚、縁覚よりも菩薩が長くなっています。
また、機根でいうと、鈍根の者は、短く、利根の者は、修行期間が長いのです。
ただ、最上利根の者だけが輪廻転生の歴劫修行が必要なく、一生で悟りを得る一生成仏ができることがわかります。
摩訶般若波羅蜜経(大品〔だいぼん)般若〔はんにゃ〕経)の注釈書である大智度論〔だいちどろん〕 によれば、菩薩が発心〔ほっしん〕してから仏となる為には「三大阿僧祇劫」という長大な時間がかかるとされており、一大阿僧祇とは、「倶舎論」によると、十の五十九乗であるとされ、「三大阿僧祇」は、その三倍となります。
また、「劫〔こう〕」は、経論によって諸説がありますが、少なくとも千六百年という時間を表わしており、「三大阿僧祇劫」とは、その一劫の三大阿僧祇倍のことで、私たちが想像もできない長い年数の事になります。
爾前経では、菩薩の修行の位に五十二位があるとされ、三大阿僧祇劫という長い時間をかけて、ひとつづつ煩悩を滅し、菩薩の位を、ひとつ登り、数え切れないほど生死を繰り返して、ようやく成仏できると説いているのです。
しかし、この菩薩の長時間の修行を嫌って、声聞、縁覚によって悟りを得ようとしても、以下に図示する見思惑を完全に捨て去らなければ、成仏は、できないと説かれています。
見惑 | 一 | 身見 (我見) |
我が身が縁起によって五陰の仮に和合 したものであることを知らずに、自我と いう本性があると執着する。その為に 自分の周りのものは、すべて自分の 所有であると執着する。 | |
二 | 辺見 | 辺見 |
これは、極端な考えを正しいとする見解の ことで、偏った見解を起こす煩悩。 | |
断見 |
断滅の見ともいい、世間及び自己の 断滅を主張して因果の理法を認めない ものであり、人は一度死ぬと断滅して 再度生まれる事がないとする誤った見解。 | |||
常見 |
世界は常住不滅であるとするとともに、 人は、死んでも自我が永久不滅である とする見解。 | |||
三 | 邪見 (撥無見) |
因果の道理を否定する見解を起こす煩悩。 撥無の「撥」は押しのけはねかえして、 顧みない事をいい、「無」は、無視する 事をいう。因果の道理を無視する見解。 | ||
四 | 見取見 (劣謂勝見) |
劣を勝と謂う見で、誤った考え方に 執着し、劣っているものを優れていると する見方、考え方を起こす煩悩をいう。 | ||
五 | 戒禁取見 (非因計因 非道計道見) |
戒禁は戒律禁制の意、すなわち間違った 戒律や禁制をもって、それを悟りの道で あると思い込む煩悩。因でないものを 因とし、道でないものを道とする考え。 |
||
思惑 | 一 | 貪〔とん〕 |
思惑は、事象に迷う煩悩で、 人間が生まれながらに持っている、 貪欲(貪り)、瞋恚(怒り)、 愚癡(愚か)、慢心(慢〔おご〕り) などです。 | |
二 | 瞋〔じん〕 | |||
三 | 痴〔ち〕 | |||
四 | 慢〔まん〕 |
ここで日蓮大聖人は、小乗教を含む爾前経を、非常に粗っぽい麁法〔そほう〕であるとされ、それに対し、法華経を妙法と述べられ、その根本的な違いを「十界互具」「一念三千」にあるとされています。
法華経以前の小乗教では、迷いの心が生じれば、六道であり、迷いの心が滅すれば、四聖であると説いており、大乗教においては、華厳経に「心は工〔たく〕みなる画師の如く種々の五陰を造る。一切世界の中に法として造らざること無し」(御書94頁)とあるように「心から、十界が生じる」と教えています。
同じく華厳経に「若し人三世一切の仏を了知せんと欲せば当〔まさ〕に是くの如く観ずべし、心は諸の如来を造る」(御書94頁)とあるように、仏さえも心が作ると述べているのです。
以下に本抄における麁法〔そほう〕と妙法との違いを図示しておきます。
教法 | 戒法と戒体 | 引業 | |
麁法 | 十悪 | 上品 | 地獄の引業 |
中品 | 餓鬼の引業 | ||
下品 | 畜生の引業 | ||
五常 | 修羅の引業 | ||
三帰五戒 | 人の引業 | ||
三帰十善 | 六欲天の引業 | ||
有漏の坐禅 | 色界無色界の引業 | ||
五戒・八戒・十戒・十善戒・二百五十戒・ 五百戒の上に苦・空・無常・無我の観 |
声聞・縁覚の引業 | ||
五戒・八戒・乃至三聚浄戒の上の六度・ 四弘誓願の菩提心を起こすは菩薩 |
仏界の引業 | ||
妙法 | 十界互具 | 人の成仏、不成仏 | 我が成仏、不成仏 |
凡夫の往生 | 我が往生 | ||
聖人の見思断 | 我等凡夫の見思断 | ||
六度万行を修せず、 多俱低劫も経ぬ声聞 | 六度満足の菩薩 | ||
人をせむる獄卒・慳貪なる凡夫 | 菩薩界 | ||
仏も因位に居す(妙覚) | 菩薩界(等覚) |
このように法華経こそ、成仏の直道であり、釈迦の一代聖教の大意の奥義〔おうぎ〕であることを知らしめて、御書94頁に改めて「妙法蓮華経」と示され、天台大師の法華玄義の文章を借りて、その意義を顕されています。
以下に、その文章を列挙しておきます。
妙法蓮華経 (法華玄義による) |
妙 | 「言ふ所の妙とは妙は不可思議に名づくるなり」 |
「秘密の奥蔵を発〔ひら〕く、 之を称して妙と為す」 |
||
「妙とは最勝修多羅〔しゅたら〕甘露の門なり、
故に妙と言ふなり」 | ||
法 | 「言ふ所の法とは十界十如権実の法なり」 | |
「権実の正軌〔しょうき〕を示す、 故に号して法と為す」 | ||
蓮華 | 「蓮華とは権実の法に譬ふるなり」 | |
「久遠の本果を指す、之を喩ふるに蓮を以てし、 不二の円道に会す、之を譬ふるに華を以てす」 | ||
経 | 「声〔こえ〕仏事を為す、之を称して経と為す」 |
本抄の結論として、妙の義に「相対妙」と「絶対妙」があり、また開会〔かいえ〕の法門にも「能開」と「所開」があることを示されています。
さらに本抄において「能開の妙」(御書98頁)とあり、法華経の文字、さらには、釈迦牟尼仏が説いた全ての一代聖教の大意の中に、この「能開の妙」が秘されていることを御教示されています。
これは、釈迦牟尼仏が説いた一代聖教の大意が、日蓮大聖人が説かれる「事の一念三千」、つまり、究極的には、絶対妙であり能開である三大秘法の大御本尊であることを暗に示されているのです。
最後に、この一代聖教大意の中には、以前より一乗要決と御書の文章が相違しているという問題があります。
それが、ただの文章の誤写なのか、大聖人の深い思索の結果なのか定説がなく、未だ誰もが納得できる説明がないという点です。
それは、大別して以下の二点になります。
①第一の問題
一乗要決の原文では「唯一師等あて、若し信受せざれば権とや為ん実とや為ん。権と為さば貴むべし」とあり、御書の文面では「唯一師等あて若し信受せずば権とや為さん実とや為さん。権と為さば貴むべし」(御書94頁)となっている点です。
原文の概略は「日本は円機純一の国であるが、信受しない師がいるという。それが嘘(権)なのか、まこと(実)なのか。もし、嘘(権)であれば、貴いことである」となり、一応、御書の文章は、一乗要決の意に近いものとなっています。
しかし、過去の創価学会版「日蓮大聖人御書全集」には、該当の部分は、「唯一師等あつて若し信受せず権とや為〔せ〕ん実とや為〔せ〕ん権為〔な〕らば責む可し」(御書399頁)とあり、ここでは、実を「実経(真実)」、権を「権経(嘘)」とされて「法華経を権経(嘘)と云うのであれば、責めるべきである」という意味に解釈されています。
これは、現在の御書の文章とは、逆の意味になります。
現在では、「責むべし」を古来からの「貴むべし」と改定されていますが、ここでは、「実経(真実)」、権を「権経(嘘)」の意味は、そのままにして、「権と為さば貴むべし」を「法華一乗が権経であるならば、彼らが正しい事になり、貴〔とうと〕ぶべきである」と、ある意味、慧心〔えしん〕が「はたして法華経が権(嘘)であろうか」と皮肉を込めて述べていると解釈しています。
②第二の問題
一乗要決の原文では「衆魔の事を覚知して、その行に随うことを示せども、善方便の智を以って、意に随って皆能く現ず」とあり、御書の文面では「衆の魔事を覚智して而も其の行に随はざるは善力方便を以て意に随って而も度すと」(御書94頁)となっています。
原文の概略は、衆生を教化する為に様々な魔事を覚知し、その行に随う事を示すという方便の辺を顕した文章となっていますが、御書の意味では、魔事に随わないことを意味しています。
要するに御書では「随うことを示せども」が「随はざるは」と「皆能く現ず」が「而も度す」となっているのです。
これが書写の誤りか、大聖人の意思によるものか不明ですが、解釈が非常に難しくなります。
ここでは「種々の魔事を覚知して、しかも、その行に従わないのは、善の方便力をもって、衆生の意思に従って、しかも、それで仏教を理解させる」と解釈しています。
必ずしも、この解釈が適切とも思えませんが、両方とも慧心〔えしん〕が著わした一乗要決の文章の参照であり、ともに末法の衆生が、逆縁の衆生との文証であることに違いは、ありません。