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一代聖教大意 第一章 三蔵教の大意
【一代聖教大意 正嘉二年二月一四日 三七歳】
一代聖教大意 正嘉2年2月14日 37歳御作
【四教。一には三蔵教、】
天台大師が立てた化儀の四教とは、一には、蔵教〔ぞうきょう〕、
【二には通教〔つうぎょう〕、三には別教〔べっきょう〕、】
二には、通教〔つうぎょう〕、三には、別教〔べっきょう〕、
【四には円教〔えんぎょう〕なり。】
四には、円教〔えんぎょう〕なのです。
【始めに三蔵教とは、阿含〔あごん〕経の意なり。】
初めの三蔵教つまり蔵教〔ぞうきょう〕とは、阿含〔あごん〕経のことです。
【此の教の意は六道より外を明かさず。】
この経文の特徴は、六道より外のことを明かしていないことです。
【但六道(地・餓・畜・修・人・天)の内の】
ただ、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六道の中の
【因果の道理を明かす。】
因果の道理を明かしているのです。
【但し正報は十界を明かすなり。】
ただし、正報については、十界を説き明かしています。
【地・餓・畜・修・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏なり。】
要するに地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、声聞、縁覚、菩薩、仏です。
【依報が六にて有れば六界と申すなり。】
依報が六つであるので、六界というのです。
【此の教の意は六道より外を明かさゞれば、】
この教えの内容は、六道より外のことを明かしていないので、
【三界より外に浄土と申す生処〔しょうしょ〕ありと云はず。】
三界以外に浄土という世界があることは、説かないのです。
【又三世に仏は次第次第に出世すとは云へども、】
また、三世に仏は、時代、時代によって、世に出現するとは、いっても、
【横に十方に並べて仏有りとも云はず。】
十方の国土に同時に諸仏がいるとは、説かないのです。
【三蔵とは一には経蔵(亦定蔵とも云ふ)】
三蔵とは、一には、経蔵(また定蔵)、
【二には律蔵〔りつぞう〕(亦戒蔵とも云ふ)】
二には、律蔵〔りつぞう〕(また戒蔵)、
【三には論蔵(亦慧蔵とも云ふ。)】
三には、論蔵(また慧蔵)を言います。
【但し経律論の定戒慧・戒定慧・慧定戒と云ふ事あるなり。】
ただし、経律論の定戒慧、戒定慧、慧定戒を言うこともあります。
【戒蔵とは五戒・八戒・十善戒・二百五十戒・五百戒なり。】
律蔵つまり、戒蔵とは、五戒、八戒、十善戒、二百五十戒、五百戒のことです。
【定蔵とは味禅〔みぜん〕(定とも名づく)・】
経蔵つまり、定蔵とは、味禅〔みぜん〕(禅を定と名づく)、
【浄禅・無漏禅〔むろぜん〕なり。】
浄禅、無漏禅〔むろぜん〕のことです。
【慧蔵とは苦・空・無常・無我の智慧なり。】
論蔵つまり、慧蔵とは、苦、空、無常、無我の智慧なのです。
【戒定慧の勝劣と云ふは、但上の戒計りを持つ者は】
戒定慧の優劣というのは、ただ上述の戒だけを持〔たも〕つ者は、
【三界の内の欲界〔よっかい〕の人天に生を受くる凡夫なり。】
三界の内の欲界〔よっかい〕の人界、天界に生を受ける凡夫なのです。
【但上の定計りを修する人は戒を持たざれども】
ただ、上述の定だけを修行する人は、戒を持たないけれども、
【定の力に依って上の戒を具するなり。】
定の力によって、上述の戒を具〔そな〕えるのです。
【此の定の内に味禅・浄禅は】
この定のうちにある味禅、浄禅を修行する人は、
【三界の内の色〔しき〕無色界〔むしきかい〕に生ず。】
三界の中の色〔しき〕無色界〔むしきかい〕へ生じるのです。
【無漏禅は声聞・縁覚と成りて見思〔けんじ〕を断じ尽くし】
無漏〔むろ〕禅を修行する人は、声聞、縁覚となって見思惑を断じ尽くし
【灰身〔けしん〕滅智〔めっち〕するなり。】
灰身〔けしん〕滅智〔めっち〕するのです。
【慧は又苦・空・無常・無我と我が色心を観ずれば、上の戒定を】
慧は、また苦、空、無常、無我と我が色心を観じるので、上述の戒、定を
【自然に具足して声聞・縁覚とも成るなり。】
自然に具足〔ぐそく〕して、声聞、縁覚となるのです。
【故に戒より定勝れ、定より慧勝れたり。】
それ故に、戒より、定は優れ、定より慧は、優れているのです。
【而れども此の三蔵教の意は戒が本体にてあるなり。】
しかしながら、この三蔵教の内容は、戒が本体であるのです。
【されば阿含経を総括する遺教経〔ゆいきょうぎょう〕には戒を説けるなり。】
それで阿含経を総括した遺教経〔ゆいきょうぎょう〕には、戒を説いているのです。
【此の教の意は依報には六界、正報には十界を明かせども、】
この教えの内容は、依報には、六界、正報には、十界を説き明かしていますが、
【依報に随って六界を明かす経と名づくるなり。】
依報を中心にして、六界を説き明かした経文と言えるのです。
【又正報に十界を明かせども縁覚・菩薩・仏も】
また、正報に十界を明かしていますが、その縁覚、菩薩、仏も
【声聞の覚りを過ぎざれば但声聞教と申す。】
声聞の悟りに過ぎないので、ただ声聞教であるとも言えるのです。
【されば仏も菩薩も縁覚も灰身滅智する教なり。】
ですから、仏も菩薩も縁覚も、灰身〔けしん〕滅智〔めっち〕する教えなのです。
【声聞に付いて七賢七聖の位あり。六道は凡夫なり。】
声聞については、七賢、七聖の位〔くらい〕があります。六道とは、凡夫なのです。
七賢 | 智と云ふことなり | ||||
一 | 三賢 | 一 | 五停心 | ごじょうしん | |
二 | 別想念処 | べっそうねんじょ | |||
三 | 総想念処 | そうそうねんじょ | |||
二 | 四善根 | 一 | 煗法 | なんぽう | |
二 | 頂法 | ちょうほう | |||
三 | 忍法 | にんぽう | |||
四 | 世第一法 | せだいいっぽう |
【此の七賢の位は六道の凡夫より賢く、生死を厭〔いと〕ひ、】
この七賢の位〔くらい〕は、六道の凡夫より賢く、生死を厭〔いと〕い、
【煩悩を具しながら煩悩を発こさゞる賢人なり。】
煩悩を具〔そな〕えながら、煩悩を起こさない賢人なのです。
【例せば外典の許由〔きょゆう〕・巣父〔そうふ〕が如し。】
例えば、外典の中国の伝説上の許由〔きょゆう〕、巣父〔そうふ〕のような人です。
五停心 〔ごじょう しん〕 | 一 | 数息 〔すそく〕 | 息を数へて散乱を治す。 | |
二 | 不浄 | 身の不浄を観じて 貪〔とん〕欲を治す。 | ||
三 | 慈悲 | 慈悲を観じて 嫉妬〔しっと〕を治す。 | ||
四 | 因縁 | 十二因縁を観じて 愚癡〔ぐち〕を治す。 | ||
五 | 界方便 | 亦は念仏 と云ふ |
地水火風空識の六界を 観じて障道を治す。 | |
別想念処 〔べっそう ねんじょ〕 | 一 | 身 | 外道は身を浄と云ひ、 仏は不浄と説きたまふ。 | |
二 | 受 | 外道は三界を楽と云ひ、 仏は苦と説きたまふ。 | ||
三 | 心 | 外道は心を常と云ひ、 仏は無常と説きたまふ。 | ||
四 | 法 | 外道は一切衆生に 我〔が〕有りと云ひ、 仏は無我と説きたまふ。 |
【外道は常(心)楽(受)我(法)浄(身)、】
外道は、心は常、受は楽、法は我、身は浄と説き、
【仏は苦・不浄・無常・無我と説く。】
仏は、苦、不浄、無常、無我と説くのです。
【総想念処 ─先の苦・不浄・無常・無我を】
総想念処〔ねんじょ〕とは、四念処〔ねんじょ〕の全体が苦、不浄、無常、無我を
【調練して観ずるなり。】
仏教の修行によって理解することです。
煗法 〔なんぽう〕 |
智慧の火、煩悩の薪〔たきぎ〕を蒸せば 煙の立つなり。故に煗法と云ふ。 |
頂法 | 山の頂に登りて、四方を見るに 雲〔くも〕り無きが如し。 |
世間出世間の因果の道理を委しく知って 闇〔くも〕り無き事に譬へたるなり。 | |
始め五停心より此の頂法に至るまでは、 退位と申して悪縁に値へば悪道に堕す。 | |
而れども此の頂法の善根は失せずと習ふなり。 | |
忍法 〔にんぽう〕 | 此の位に入る人は永く悪道に堕ちず。 |
世第一法 | 此の位に至るまでは賢人なり。 但し今に聖人と成るべきなり。 |
七聖 〔しちしょう〕 | 正と云ふ事なり | |||||
一 | 見道 〔けんどう〕 |
一 | 隨信行 〔ずいしんぎょう〕 | 鈍根 | ||
二 | 隨法行 〔ずいほうぎょう〕 | 利根 | ||||
二 | 修道 〔しゅどう〕 |
一 | 信解 〔しんげ〕 | 鈍根 | ||
二 | 見得 〔けんとく〕 | 利根 | ||||
三 | 身証 〔しんしょう〕 | 利鈍に 亘る | ||||
三 | 阿羅漢〔あらかん〕 | |||||
無学道 〔むがくどう〕 | 一 | 慧解脱 〔えげだつ〕 | 鈍根 | |||
二 | 倶解脱 〔くげだつ〕 | 利根 |
【見思の煩悩を断ずる者を聖〔しょう〕と云ふ。此の聖人に三道あり。】
見惑、思惑の煩悩を断ずる者を聖と言います。この聖人に、三つの道があるのです。
【見道とは見思〔けんじ〕の内の見惑〔けんなく〕を断じ尽くす。】
見道とは、見思惑の中の見惑を断じ尽くすことで、
【此の見惑を尽くす人をば初果〔しょか〕の聖者と申す。】
この見惑を断じ尽くす人を初果〔しょか〕の聖者と言います。
【此の人は欲界の人天〔にんでん〕には生ずるとも、】
この人は、欲界の人界、天界には、生まれますが、
【永く地餓畜修の四悪趣〔しあくしゅ〕には堕ちず。】
永く地獄、餓鬼、畜生、修羅の四悪趣〔しあくしゅ〕には、堕ちないのです。
【天台云はく「見惑を破するが故に四悪趣を離る」文。】
天台大師〔だいし〕は「見惑を破る故に四悪趣を離れる」と述べられています。
【此の人は未だ思惑を断ぜず、貪瞋癡身に有り。】
この人は、いまだ思惑を断じておらず、貪、瞋、癡が残っているのです。
【貪欲あるが故に妻を帯す。而れども他人の妻を犯さず。】
身に貪欲ある故に妻を娶〔めと〕るのですが、他人の妻を犯さないのです。
【瞋恚〔しんに〕あれども物を殺さず。】
瞋恚〔しんに〕は、ありますが、それでも生き物を殺すことは、ないのです。
【鋤〔すき〕を以て地をすけば】
この人は、たとえ、鋤〔すき〕をもって大地を耕〔たがや〕しても、
【虫自然に四寸去る。】
虫が自然に大地から四寸(約12センチ)ほど離れて、死なないのです。
【愚癡なる故に我が身初果の聖者とは知らず。】
しかし、無智なので、我が身が初果〔しょか〕の聖者であるとは知らないのです。
【婆沙〔ばしゃ〕論に云はく「初果の聖者は妻を八十一度一夜に犯す」(取意)。】
婆沙論には「初果の聖者は、妻を八十一回、一夜に犯す」(取意)とあります。
【天台の解釈に云はく「初果、地を耕すに】
天台大師の解釈では「初果の聖者が、地を耕すときに
【虫四寸を離るゝは道共〔どうぐ〕の力なりと。】
虫が四寸を離れるのは、道共〔どうぐ〕戒の力である」と述べられています。
【第四果の聖者阿羅漢〔あらかん〕を無学と云ひ、】
第四果の聖者である阿羅漢〔あらかん〕を無学と言い、
【亦は不生〔ふしょう〕と云ふ。永く見思を断尽〔だんじん〕して】
または、不生〔ふしょう〕と言います。永く見思惑を断じ尽くして、
【三界六道に此の生の尽きて後は生ずべからず。】
三界六道で、この生が尽きて後は、再び三界に生じることは、ありません。
【見思の煩悩無きが故なり」と。又此の教の意は三界六道より外に】
見思の煩悩がない故なのです。また、この教えの内容では、三界六道の外に
【処を明かさゞれば外の生処有りと知らず。】
他の世界を明かさないので、来世に仏に生まれる所があるとは、知らず、
【身に煩悩有りとも知らず、】
身に見思惑以外の煩悩があることも知らないのです。
【又生因無く但灰身〔けしん〕滅智〔めっち〕と申して】
また三界に生まれる因がなく、ただ灰身〔けしん〕滅智〔めっち〕と言って
【身も心もうせ虚空の如く成るべしと習ふ。】
身も心も滅し、空虚に成ると習って、それを信じているのです。
【法華経にあらずば永く仏になるべからずと云ふは二乗〔にじょう〕是なり。】
法華経でなければ、永く仏に成れないと云うのは、この二乗のことです。
【此の教の修行の時節は、】
この教えの修行の期間については、
【声聞は三生(鈍根)六十劫(利根)。】
理解力が低い声聞では、三生の間、優れた理解力の声聞は、六十劫の間といい、
【又一類の最上利根の声聞は】
また、同じ二乗のうち、最上の理解力の声聞は、
【一生の内に阿羅漢の位に登る事有り。】
一生のうちに阿羅漢〔あらかん〕の位〔くらい〕に登ることがあります。
【縁覚〔えんがく〕は四生(鈍根)百劫(利根)。】
理解力が低い縁覚は、四生の間、優れた理解力の縁覚は、百劫の間、修行します。
【菩薩は一向凡夫にて見思を断ぜず。】
菩薩は、ほとんど凡夫であって、見思惑を断じません。
【而も四弘〔しぐ〕誓願〔せいがん〕を発〔お〕こし、六度万行を修し、】
しかも四弘〔しぐ〕誓願〔せいがん〕をおこし、六波羅蜜の万行を修し、
【三僧祇百大劫を経て三蔵教の仏と成る。】
三僧祇、百大劫を経て三蔵教の仏(劣応身)となるのです。
【仏と成る時始めて見思を断尽するなり。】
仏となる時、初めて見思惑を断じ尽くすのです。
【見惑とは一には身見(亦我見とも云ふ)、】
見惑とは、一には、身見(また我見)であり、
【二には辺見〔へんけん〕(亦断見常見とも云ふ)、】
二には、辺見(また断見常見)であり、
【三には邪見(亦撥無見とも云ふ)、】
三には、邪見(また撥無〔はつむ〕見)、
【四には見取見(亦劣謂勝見とも云ふ)、】
四には、見取見(また劣謂勝見〔れついしょうけん〕)、
【五には戒禁〔かいごん〕取見〔じゅけん〕】
五には、戒禁〔かいごん〕取見〔じゅけん〕
【(亦非因計因非道計道見とも云ふ)なり。】
(また非因計因〔ひいんけいいん〕非道計道見〔ひどうけいどうけん〕)なのです。
【見惑に八十八有れども此の五が本にて有るなり。】
見惑は、八十八ありますが、この五つが根本なのです。
【思惑とは一には貪、二には瞋、三には癡、】
思惑とは、一には、貪〔とん〕、二には、瞋〔じん〕、三には、癡〔ち〕、
【四には慢なり。思惑には八十一有れども此の四が本にて有るなり。】
四には、慢です。思惑は、八十一ありますが、この四つが根本なのです。
【此の法門は阿含経四十巻・婆沙論二百巻・正理〔しょうり〕論・】
この法門は、阿含経四十巻、婆沙論二百巻、正理〔しょうり〕論、
【顕宗〔けんしゅう〕論・倶舎〔くしゃ〕論具〔つぶさ〕に明かせり。】
顕宗〔けんしゅう〕論、倶舎〔くしゃ〕論に、ことごとく明かされています。
【別して倶舎宗と申す宗有り。】
別して倶舎〔くしゃ〕宗という宗派があります。
【又諸の大乗に此の法門少々明らめたる事あり。】
また諸大乗経に、この法門が少々明かされることがあります。
【謂はく方等〔ほうどう〕部の経・涅槃経等なり。】
つまり、方等部の経々、涅槃経などが、それです。
【但し華厳・般若・法華には此の法門無し。】
ただし、華厳経、般若経、法華経には、この法門は、ありません。