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十法界明因果抄 第三章 仏、菩薩、二乗の因縁
【第七に声聞道とは、此の界の因果をば】
第七に声聞界の界の因果については、
【阿含〔あごん〕小乗十二年の経に分明〔ふんみょう〕に之を明かせり。】
十二年間に説かれた阿含経という小乗経に、詳しく明かされています。
【諸大乗経に於ても大に対せんが為に亦之を明かせり。】
諸大乗経においても、大乗と比較する為に、また、それを明かされています。
【声聞に於て四種有り。】
声聞においては、四種類があり、
【一には優婆塞〔うばそく〕、俗男なり。】
一には、優婆塞〔うばそく〕で、俗世の男性のことです。
【五戒を持し苦・空・無常・無我の観を修し、】
五戒を持〔たも〕って、苦、空、無常、無我の観念を修め、
【自調〔じじょう〕自度〔じど〕の心強くして敢〔あ〕へて化他の意無く、】
自調〔じちょう〕自度〔じど〕の心が強く、化他の意思がなく、
【見思〔けんじ〕を断尽して阿羅漢〔あらかん〕と成る。】
見思〔けんじ〕惑を断じ尽くして、阿羅漢〔あらかん〕となります。
【此くの如くする時自然に髪を剃〔そ〕るに自づから落つ。】
髪を剃る時に自然と自〔おの〕ずから落ちるのです。
【二には優婆夷〔うばい〕、俗女なり。】
二には、優婆夷〔うばい〕で、俗世の女性です。
【五戒を持し髪を剃るに】
五戒を持〔たも〕って、髪を剃るときに
【自づから落つること男の如し。】
自〔おの〕ずから落ちることは、在欲の男性と同じなのです。
【三には比丘〔びく〕僧なり、】
三には、比丘であり、僧侶です。
【二百五十戒(具足戒なり)を持して苦・空・無常・無我の観を修し、】
二百五十戒を持〔たも〕って、苦、空、無常、無我の観念を修め、
【見思を断じて阿羅漢と成る。】
見思〔けんじ〕惑を断じて、阿羅漢〔あらかん〕となります。
【此くの如くするの時、髪を剃らざれども生ぜず。】
このようにする時、髪を剃らなくても生えてこないのです。
【四には比丘尼〔びくに〕なり。五百戒を持す、余は比丘の如し。】
四には、比丘尼です。五百戒を持〔たも〕ち、あとは、比丘と同じなのです。
【一代諸経に列座せる舎利弗・目連等の如き声聞是なり。】
一代諸経の会座に列なった舎利弗や目連のような声聞がこれにあたります。
【永く六道に生ぜず、亦仏・菩薩とも成らず、】
永く六道に生まれず、また、仏や菩薩にもならないのです。
【灰身〔けしん〕滅智〔めっち〕し決定して仏に成らざるなり。】
灰身〔けしん〕滅智〔めっち〕して、けっして仏には、ならないのです。
【小乗戒の手本たる尽形寿〔じんぎょうじゅ〕の戒は、】
小乗戒の手本である尽形寿〔じんぎょうじゅ〕の戒は、
【一度依身〔えしん〕を壊〔やぶ〕れば永く戒の功徳無し。】
一度、身体が滅べば、永く戒の功徳は、なくなるのです。
【上品を持すれば二乗と成り、】
上品を持〔たも〕つならば、二乗となり、
【中下を持すれば人天に生じて民と為る。】
中品、下品を持〔たも〕つならば、人界、天界に生まれて民衆となり、
【之を破れば三悪道に堕して罪人と成るなり。】
これを破れば、三悪道に堕ちて罪人となるのです。
【安然〔あんねん〕和尚の広釈に云はく】
比叡山の学匠である安然〔あんねん〕の普通授菩薩戒広釈には
【「三善の世戒は因生じて果を感じ】
「三善道は、世間の戒である。因によって生まれて果を感じ、
【業尽きて悪に堕〔だ〕す。】
業が尽きて悪道に堕ちる。
【譬へば楊葉〔ようよう〕の秋至れば金に似たれども、】
たとえば、ヤナギの葉は、秋が来れば、金に似ているけれども、
【秋去れば地に落つるが如し。二乗の小戒は持する時は】
秋が去れば、地に落ちる。二乗の小乗戒は、持〔たも〕つ時には、
【果拙〔つたな〕く破する時は永く捨つ。】
果は、少なく、破るときには、すぐに功徳がなくなる。
【譬へば瓦器〔がき〕の完〔まった〕くして用ふるに卑〔いや〕しく、】
たとえば、素焼きの土器は、完全であっても、すぐに水が漏れて用いるのが難しく、
【若し破れば永く失〔う〕するが如し」文。】
壊れれば、すぐに役に立たないのと同じである」とあります。
【第八に縁覚道とは、二有り。】
第八に縁覚〔えんがく〕界には、二種類があります。
【一には部行〔ぶぎょう〕独覚〔どくかく〕、】
一には、部行〔ぶぎょう〕独覚〔どくかく〕であり、
【仏前に在りて声聞の如く小乗の法を習ひ、小乗の戒を持し、】
仏の在世にあって、声聞と同じように小乗の法を習い、小乗の戒を持〔たも〕ち、
【見思を断じて永〔よう〕不成仏の者と成る。】
見思惑を断じて、永く不成仏の者となるのです。
【二には麟喩〔りんゆ〕独覚、】
二には、鱗喩〔りんゆ〕独覚であり、
【無仏の世に在りて飛花〔ひけ〕落葉〔らくよう〕を見て】
無仏の世にあって、飛花〔ひけ〕落葉〔らくよう〕を見て、
【苦・空・無常・無我の観を作し、見思を断じて永不成仏の身と成る。】
苦、空、無常、無我の理を観念し、見思惑を断じて、永く不成仏の身となるのです。
【戒も亦声聞の如し。此の声聞縁覚を二乗とは云ふなり。】
戒も、また声聞と同じなのです。この声聞と縁覚を二乗というのです。
【第九に菩薩界とは、六道の凡夫の中に於て、】
第九に菩薩界とは、六道の凡夫の中において、
【自身を軽〔かろ〕んじ他人を重んじ、悪を以て己に向け】
自身を軽んじ、他人を重んじ、悪をもって己に向け、
【善を以て他に与へんと念〔おも〕ふ者有り。】
善をもって他に与えようと思う者なのです。
【仏此の人の為に諸の大乗経に於て菩薩戒を説きたまへり。】
仏は、この人の為に、多くの大乗経において菩薩戒を説かれたのです。
【此の菩薩戒に於て三有り。一には摂善〔しょうぜん〕法戒、】
この菩薩戒に三種類あるのです。一には、摂善〔しょうぜん〕法戒です。
【所謂〔いわゆる〕八万四千の法門を習ひ尽くさんと願す。】
いわゆる八万四千の法門を習い尽くそうと願うのです。
【二には饒益〔にょうやく〕有情〔うじょう〕戒、】
二には、饒益〔にょうやく〕有情〔うじょう〕戒です。
【一切衆生を度しての後に自らも成仏せんと欲する是なり。】
一切衆生を救済して後に、自らも成仏しようと願うのです。
【三には、摂律儀〔しょうりつぎ〕戒、】
三には、摂律儀〔しょうりつぎ〕戒です。
【一切の諸戒を尽〔ことごと〕く持せんと欲する是なり。】
一切の諸戒を、ことごとく受持しようと願うのです。
【華厳〔けごん〕経の心を演〔の〕ぶる梵網〔ぼんもう〕経に云はく】
華厳〔けごん〕経の心を分かりやすく説かれた梵網〔ぼんもう〕経に
【「仏諸の仏子に告げて言はく、十重の波羅提木叉〔はらだいもくしゃ〕有り。】
「仏が諸々の仏子に告げて言われるには、十重禁戒の条文がある。
【若し菩薩戒を受けて此の戒を誦せざる者は菩薩に非ず、仏の種子に非ず、】
もし、菩薩戒を受けて、この戒を唱えない者は、菩薩ではなく仏の種子ではない。
【我も亦是くの如く誦す。】
仏もまた、同じように唱えたのである。
【一切の菩薩は已に学し、一切の菩薩は当に学し、】
一切の菩薩は、すでに学び、一切の菩薩は、これから学び、
【一切の菩薩は今学す」文。】
一切の菩薩は、いま学んでいる」と説かれています。
【菩薩と言ふは二乗を除きて一切の有情なり。】
菩薩というのは、二乗を除いた一切の有情のことなのです。
【小乗の如きは戒に随ひて異なるなり。菩薩戒は爾〔しか〕らず。】
小乗戒は、戒によって違いがありますが、菩薩戒は、そうではありません。
【一切の有心に必ず十重禁〔じゅうじゅうきん〕等を授く。】
一切の有情の心に、必ず十重禁戒などを授けるのです。
【一戒を持するを一分の菩薩と云ひ、】
一戒を持〔たも〕つのを、一分の菩薩と云い、
【具〔つぶさ〕に十分を受くるを具足の菩薩と名づく。】
漏れなく戒を受けるのを、具足〔ぐそく〕の菩薩と名づけるのです。
【故に瓔珞〔ようらく〕経に云はく】
それ故に瓔珞〔ようらく〕経には
【「一分の戒を受くること有れば一分の菩薩と名づけ、乃至二分・】
「一分の戒を受けるならば、一分の菩薩と名付け、また、二分、
【三分・四分・十分なるを具足の受戒といふ」文。】
三分、四分、十分であるのを具足〔ぐそく〕の受戒という」と説かれています。
【問うて云はく、二乗を除くの文如何。】
それでは、菩薩界から二乗を除くという文章は、どこにあるのでしょうか。
【答へて云はく、梵網経に菩薩戒を受くる者を列ねて云はく】
それは、梵網〔ぼんもう〕経に菩薩戒を受ける者を列ねて
【「若し仏戒を受くる者は国王・王子・百官・宰相〔さいしょう〕・】
「もし仏の戒を受ける者は、国王、王子、百官、宰相、
【比丘・比丘尼・十八梵天・六欲天子・庶民・黄門〔こうもん〕・】
比丘、比丘尼、十八梵天、六欲天子、庶民、子供ができない男、
【淫男〔いんなん〕・淫女〔いんにょ〕・奴婢〔ぬひ〕・八部・鬼神・金剛神・】
淫男、淫女、男女の奴隷、八部衆、鬼神、金剛力士、
【畜生乃至変化人〔へんげにん〕にもあれ、】
畜生、その他、変化の人であっても、
【但法師の語を解するは尽〔ことごと〕く戒を受得すれば】
ただ、法師の言葉が分かり、すべて戒を受けることができれば、
【皆第一清浄の者と名づく」文。】
みな第一清浄の者と名づける」と説かれています。
【此の中に於て二乗無きなり。】
この中において、二乗の名前は、挙げられていないのです。
【方等部の結経たる瓔珞〔ようらく〕経にも】
方等部の結経である瓔珞〔ようらく〕経にも、
【亦二乗無し。】
また二乗の名前は、挙げられていないのです。
【問うて云はく、二乗所持の不殺生戒と】
それでは、二乗が持〔たも〕つところの不殺生戒と
【菩薩所持の不殺生戒と差別如何〔いかん〕。】
菩薩が持〔たも〕つところの不殺生戒との違いは、あるのでしょうか。
【答へて云はく、所持の戒の名は同じと雖も、】
それは、持〔たも〕つところの戒の名前は、同じであっても、
【持する様並びに心念永く異なるなり。】
持〔たも〕ち方や、その心の想いが、まったく異なるのです。
【故に戒の功徳も亦浅深〔せんじん〕有り。】
それ故に、戒を持〔たも〕つ功徳にも、大きな違いがあります。
【問うて云はく、異なる様如何。】
それでは、二乗と菩薩に、どのような違いがあるのでしょうか。
【答へて云はく、二乗の不殺生戒は】
それは、二乗の持〔たも〕つ不殺生戒は、
【永く六道に還らんと思はず、】
自〔みずか〕らが六道に戻りたくないと思っているからであって、
【故に化導の心無し。亦仏菩薩と成らんと思はず、】
六道を化導する心がなく、また、仏や菩薩にも成ろうとも思わず、
【但灰身〔けしん〕滅智〔めっち〕の思ひを成すなり。】
ただ、二乗の理想である灰身〔けしん〕滅智〔めっち〕の思いだけなのです。
【譬へば木を焼き灰と成しての後に一塵も無きが如し。】
たとえば、木を焼いて灰となった後には、一塵もないようなものなのです。
【故に此の戒をば瓦器〔がき〕に譬ふ。】
それ故に、この瓦器〔がき〕戒を素焼きの土器に譬〔たとえ〕ているのです。
【破れて後用ふること無きが故なり。菩薩は爾〔しか〕らず。】
使用後は、使い捨てで用いることがないからです。菩薩は、そうではありません。
【饒益〔にょうやく〕有情〔うじょう〕戒を】
すべての有情に利益をもたらす饒益〔にょうやく〕有情〔うじょう〕戒を
【発こして此の戒を持するが故に、】
持〔たも〕って、すべての衆生を教化し、この不殺生戒を持〔たも〕つので、
【機を見て五逆十悪を造り】
その教化する衆生の状況によっては、たとえ五逆や十悪を
【同じく犯せども此の戒は破れず、】
教化する衆生と同じように犯したとしても、この戒は、それでは、破れず、
【還って弥〔いよいよ〕戒体を全くす。】
返って、いよいよ戒体が強くなるのです。
【故に瓔珞経に云はく「犯すこと有れども失せず、】
それ故に瓔珞〔ようらく〕経には「犯すことがあっても、失われない。
【未来際を尽くす」文。故に此の戒をば金銀の器に譬ふ。】
未来永劫に存在する」とあり、それ故に、この戒を金銀の器に譬えるのです。
【完くして持する時も破する時も】
完璧に持〔たも〕っているときも、また、戒を破った時でさえも、
【永く失せざるが故なり。】
永く、その戒は、破れず、失われないのです。
【問うて云はく、此の戒を持する人は】
それでは、この戒を持〔たも〕つ人は、
【幾劫を経てか成仏するや。】
どれほどの時間を経れば、成仏するのでしょうか。
【答へて云はく、瓔珞経に云はく「未だ住に上らざる前】
それは、瓔珞〔ようらく〕経には「未だ初住の位に上がる前
【○若しは一劫二劫三劫乃至】
(中略)もしくは、一劫、二劫、三劫、
【十劫を経て初住の位の中に入ることを得」文。】
そして十劫を経て、初住の位の中に入ることができる」と説かれています。
【文の意は凡夫に於て】
文章の意味は、凡夫の身で、
【此の戒を持するを信位の菩薩と云ふ。】
この戒を持〔たも〕つのを十信の位の菩薩というのです。
【然〔しか〕りと雖〔いえど〕も一劫二劫乃至十劫の間は】
しかしながら、一劫、二劫、または、十劫の間は、
【六道に沈輪〔ちんりん〕し、十劫を経て不退の位に入り】
六道の境界に深く沈んでおり、十劫を経て不退の位に入り、
【永く六道の苦を受けざるを不退の菩薩と云ふ。】
永く六道の苦悩を受けないので、不退の菩薩というのです。
【未だ仏に成らず、還って六道に入れども苦無きなり。】
しかし、まだ仏に成らず、逆に六道に入るのですが、苦悩は、受けないのです。
【第十に仏界とは、菩薩の位に於て】
第十に仏界とは、菩薩の位において、衆生無辺誓願度、煩悩無量誓願断、
【四弘〔しぐ〕誓願〔せいがん〕を発すを以て戒と為す。】
法門無尽誓願知、仏道無上誓願成の四弘誓願をすることをもって戒となし、
【三僧祇〔そうぎ〕の間六度万行を修し、見思〔けんじ〕・塵沙〔じんじゃ〕・】
三阿僧祇劫の間、六度万行を修行し、見思〔けんじ〕惑、塵沙〔じんじゃ〕惑、
【無明〔むみょう〕の三惑を断尽〔だんじん〕して仏と成る。】
無明〔むみょう〕惑の三惑〔さんなく〕を断じ尽くして仏と成るのです。
【故に心地観経〔しんじかんぎょう〕に云はく】
それ故に、心地観経〔しんじかんぎょう〕には
【「三僧企耶〔そうぎや〕大劫の中に具〔つぶさ〕に百千の諸の苦行を修し、】
「三僧企耶大劫〔さんそうぎやだいこう〕の間、詳細に百千の諸の苦行を修し、
【功徳円満して法界に遍く、】
その功徳は、円満にして、法界に遍〔あまね〕く、
【十地究竟〔くきょう〕して三身を証す」文。】
十地の位の究極に達して、三身を証得する」と説かれています。
【「因位に於て諸の戒を持ち、】
また「因位において、諸々の戒を持〔たも〕ち、
【仏果の位に至りて仏身を荘厳す」文。】
仏果の位に至って仏身を荘厳する」とも説かれています。
【三十二相・八十種好は即ち是戒の功徳の感ずる所なり。】
三十二相、八十種好は、この戒の功徳を感じるところにあるのです。
【但し仏果の位に至れば戒体失す。】
ただし、仏果の位に至れば、戒体は失われます。
【譬へば華の果と成りて華の形無きが如し。】
たとえば、花が果となれば、花の形がなくなるようなものです。
【故に天台の梵網経疏〔ぼんもうきょうしょ〕に云はく】
それ故に、天台大師の梵網経〔ぼんもうきょう〕の疏〔しょ〕には
【「仏に至りて乃ち廃す」文。】
「仏果に至ると、戒体は、廃〔はい〕するのである」と述べられています。
【問うて云はく、梵網経等の大乗戒は】
それでは、梵網経〔ぼんもうきょう〕などの大乗戒は、
【現身に七逆を造れると並びに】
現在の身で七逆罪を犯した者と小乗教で説く仏や菩薩に成らないと決まっている
【決定性〔けつじょうしょう〕の二乗とを許すや。】
決定性〔けつじょうしょう〕の二乗にも戒を受けることを許すのでしょうか。
【答へて云はく、梵網経に云はく「若し戒を受けんと欲する時は、】
それは、梵網経〔ぼんもうきょう〕には「もし、戒を受けようと願う時は、
【師応〔まさ〕に問ひ言ふべし。汝現身に七逆の罪を作らざるや、】
師は、現身に七逆の罪を作ったことはないかと問うべきである。
【菩薩の法師は七逆の人の与〔ため〕に】
菩薩の法師は、七逆罪を犯した人の為には、
【現身に戒を受けしむることを得ず」文。】
現身に戒を受けさせることはできない」と説かれています。
【此の文の如くんば七逆の人は現身に受戒を許さず。】
この文章によるならば、七逆罪を犯した人の受戒は、許されてはいません。
【大般若〔だいはんにゃ〕経に云はく】
大般若〔だいはんにゃ〕経には
【「若し菩薩設〔たと〕ひ殑伽沙〔ごうがしゃ〕劫に妙の五欲を受くるとも、】
「もし、菩薩は、たとえ恒河沙劫の間、妙なる五欲を受けたとしても、
【菩薩戒に於ては猶犯〔ぼん〕と名づけず。】
菩薩戒においてはなお、犯とは名付けない。
【若し一念二乗の心を起こさば即ち名づけて犯と為す」文。】
もし、一念に二乗の心を起こすならば、すなわち犯と名付ける」と説かれています。
【大荘厳論〔だいしょうごんろん〕に云はく】
大荘厳論〔だいしょうごんろん〕には
【「恒〔つね〕に地獄に処すと雖も大菩提〔だいぼだい〕を障〔ささ〕へず、】
「常に地獄に有るといっても、大菩提の障〔さわ〕りとは、ならないが、
【若し自利の心を起こさば】
もし、自ら悟りを得て、仏教以外の教えを弘める心を起こせば、
【是大菩提の障りなり」文。】
これは、大菩提の障りとなる」と記されています。
【此等の文の如くんば六凡に於ては菩薩戒を授〔さず〕け、】
これらの文章に依るならば、六道の凡夫においては、菩薩戒を授け、
【二乗に於ては制止を加ふる者なり。】
二乗においては、授戒を制止されているのです。
【二乗戒を嫌ふは二乗所持の五戒・八戒・十戒・十善戒・】
二乗の戒を否定するのは、二乗が持〔たも〕つところの五戒、八戒、十戒、十善戒、
【二百五十戒等を嫌ふに非ず。彼の戒は菩薩も持すべし。】
二百五十戒などを嫌っているのではなく、それらの戒は、菩薩も持っており、
【但二乗の心念を嫌ふなり。】
ただ、二乗の自ら悟りを得て、その教えを弘めようとする心根を嫌っているのです。
【夫〔それ〕以〔おもんみ〕れば持戒は父母・師僧・国王・主君・一切衆生・】
よく考えてみれば、戒を持〔たも〕つのは、父母、師僧、国王、主君、一切衆生、
【三宝の恩を報ぜんが為なり。父母は養育の恩深し。】
三宝の恩を報じる為なのです。父母は、養い育ててくれた恩が深いのです。
【一切生衆は互ひに相助くる恩重し。】
一切衆生は、互いに助け合う恩が重いのです。
【国王は正法を以て世を治むれば自他安穏なり。】
国王は、正法をもって世を治めれば、自他ともに安穏となるのです。
【此に依って善を修すれば恩重し。】
それで人々は、善を修めることができるのですから、その恩は、重いのです。
【主君も亦彼の恩を蒙〔こうむ〕りて父母・妻子・眷属〔けんぞく〕・所従・】
主君も、また、その恩によって、父母、妻子、同僚、部下、
【牛馬等を養ふ。】
牛馬などを養うことができるのです。
【設ひ爾〔しか〕らずと雖も一身を顧〔かえり〕みる等の恩是重し。】
たとえ、そうでなくても、自らを顧〔かえり〕みることができる恩は、重いのです。
【師は亦〔また〕邪道を閉ぢ正道に趣〔おもむ〕かしむる等の恩是深し。】
師は、また、邪道を禁じ、正道に就かせるなどの恩が深いのです。
【仏恩〔ぶっとん〕は言ふに及ばず。是くの如く無量の恩分之〔これ〕有り。】
仏の恩は、言うまでもなく、このように無量の恩を受けているのです。
【而るに二乗は此等の報恩皆欠けたり。】
それなのに、二乗は、これらの報恩が、みな欠けているのです。
【故に一念も二乗の心を起こすは】
それ故に、少しでも二乗の心を起こすならば、
【十悪五逆に過ぎたり。一念も菩薩の心を起こすは】
十悪や五逆罪を犯すよりも大きな罪となり、少しでも菩薩の心を起こすならば、
【一切諸仏の後心の功徳を起こせるなり。】
すべての仏の、仏となった原因を起こしたことになるのです。
【已上四十余年の間の大小乗の戒なり。】
以上は、四十余年の間の大乗教、小乗教の戒の話です。