日蓮正宗法華講 開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑚資料


十法界明因果抄 背景と大意


本抄は、文応元年(西暦1260年)4月21日、日蓮大聖人が39歳の時に鎌倉で認〔したた〕められた御書です。
御真筆は、現存しませんが、身延に古写本があり、別名を十界明因果抄と言います。
対告衆については、不明ですが、その内容については、題号が示す通り、十界それぞれの因果を詳述し、特に仏界については、爾前権教の戒と法華経の戒とに大きな違いがあることを示されて、法華経こそが即身成仏の教えであること、それ故に法華経誹謗が謗法、堕地獄の業因であることを明かされています。
この時期の日蓮大聖人は、正嘉元年(西暦1257年)8月の鎌倉大地震を機に、翌年の春に駿河国(静岡県)岩本の実相寺で大蔵経を閲覧されており、正嘉2年(西暦1258年)2月に一代聖教大意を著述され、文応元年(西暦1260年)7月16日に立正安国論を北条時頼へ提出されています。
この文応元年の4月の時点で立正安国論を草案されていたと想像されますが、本抄では、十法界の名目と、各界の因果を詳細に明かされています。
とくに仏界については、爾前経と法華経の戒の違いを説き、法華経こそが即身成仏の教えであることを論じられています。
立正安国論では、特にこの事には、直接、触れられてはいませんが、この間に一代聖教大意を著述されていることでもあり、おそらくは、岩本の実相寺での一切経、五千余巻の閲覧〔えつらん〕の中で、十法界の名目と、各界の因果を系統的にまとめられて、立正安国論の草案に臨まれたと考えられます。
大聖人は、本抄の冒頭において、八十華厳経第69巻に「普賢道〔ふげんどう〕に入〔い〕ることを得て、十法界を了知す」(御書205頁)とあり、ここに「十法界」の名称があることを示されます。
この八十華厳経とは、中国の唐の時代に実叉難陀〔じっしゃなんだ〕が訳した大方広仏華厳経八十巻のことで、中国、東晋時代の仏駄跋陀羅〔ぶっだばったら〕が訳した華厳経六十巻を六十華厳経、旧訳華厳経と呼ぶのに対して、八十華厳経、新訳華厳経と言います。
普賢道〔ふげんどう〕とは、華厳経に解かれた普賢〔ふげん〕菩薩大士の道のことで、円融相即の法門を悟った者は、地獄界から仏界までの十法界と、その因果を悟り知ることができるという意味です。
また、法華経第六巻の法師功徳品には、三千大千世界に地獄界から仏界までの十界が具わることが説かれていることが示されています。十界とは、十法界と同義です。
これは、もし、善男子、善女人が、法華経を受持、読誦、解説、書写すれば、六根清浄の耳の功徳が得られることを明かした文章の一節で、「是の清浄の耳を以て、三千大千世界の下阿鼻地獄に至り、上有頂に至る、其の中の内外の種種の所有る語言の音声」として、「象声・馬声・牛声・車声・啼哭〔ていこく〕声・愁歎〔しゅうたん〕声・螺声・鼓声・鐘声・鈴声・笑声・語声・男声・女声・童子声・童女声・法声・非法声・苦声・楽声・凡夫声・聖人声・喜声・不喜声・天声・竜声・夜叉声・乾闥婆〔けんだつば〕声・阿修羅〔あしゅら〕声・迦楼羅〔かるら〕声・緊那羅〔きんなら〕声・摩睺羅伽〔まごらか〕声・火声・水声・風声」を挙げた後に「地獄声、畜生声、餓鬼声、比丘声・比丘尼声(人道)、声聞声、辟支仏声〔びゃくしぶつ〕、菩薩声、仏声」(御書205頁)と続くところであり、大聖人は、引用された、この文章の中で「比丘声、比丘尼声」を「人の声」と解釈され、人界であることを示されています。
比丘とは、男性の出家僧で、比丘尼は、女性の出家僧のことです。
また、辟支仏〔びゃくしぶつ〕声は、縁覚〔えんがく〕を顕しています。
十界については、爾前経にも、それぞれに説かれていますが、十界の名を網羅した経文が他にみられないことから、あえてこの経文を挙げられたと思われます。
この御書の内容以外にも、大智度論第27巻には、「四種の道あり。声聞道・辟支仏道・菩薩道・仏道なり(中略)復六種の道あり。地獄道・畜生・餓鬼・人・天・阿修羅道なり」とあり、天台大師の法華玄義第2巻上には「気類相似を取って合して四番と為す。初めに四趣、次に人天、次に二乗、次に菩薩・仏なり」とあり、また、この十界について、日寛上人は、三重秘伝抄に「八大地獄に各々十六の別処あり、故に一百三十六、通じて地獄と号するなり。餓鬼は正法念経に三十六種を明かし、正理論に三種九種を明かす。畜生は魚に六千四百種、鳥に四千五百種、獣に二千四百種、合わせて一万三千三百種、通じて畜生界と名づくるなり。修羅は身長八万四千由旬、四大海の水も膝に過ぎず。人は即ち四大州なり。天は即ち欲界の六天と色界の十八天と無色界の四天となり。二乗は身子・目連の如し。菩薩は本化・迹化の如し。仏界は釈迦・多宝の如し云々」と述べられています。
これは、それぞれ定まった色心、境界、国土を有すると説かれた爾前経の立場での十界論を挙げられたものです。
このように仏教は、十法界を基本としており、以下、十界それぞれの因果について、明〔あき〕らかにされています。
本抄では、この後から、十界のそれぞれの因縁が詳しく明かされていきます。
まず、地獄に堕ちる理由を殺母、殺父、殺阿羅漢〔せつあらかん〕、出仏身血〔すいぶっしんけつ〕、破和合僧〔はわごうそう〕の五逆罪や、仏教の因果を無視する、大乗誹謗、殺生、偸盗〔ちゅうとう〕、邪淫、妄語の四重禁などを挙げられていますが、無間地獄に堕ちる因縁として、法華誹謗の謗法こそ、第一の原因であるとされています。
そして、釈尊の十大弟子の一人、阿難尊者の故事を引かれて、釈迦滅後の、わずか四十年で、釈迦の教えが間違って伝えられており、ましてや、仏滅後二千年を過ぎた末法においては、仏法が言葉や文化が違うインド、中国、日本と翻訳されていく間に、インドでの伝承を記録した梵語〔ぼんご〕の原典の誤りがあり、さらに、それを書き写す上での誤り、翻訳する際の誤り、解釈の誤りの他に、著者の故意に依る削除や添加、偽経の製作など、仏意を損なう人師、論師による誤謬〔ごびゅう〕が入り込み、いかに正しく伝えられることが難しいかは、天台大師に依って明らかになっていると指摘されています。
まして、末法の諸宗の学者は、自宗の邪義への執着が強く、自らをおごって、他を卑しむ心があり、火を水と主張してその誤りを認めようとしないのです。
たとえ、仏説の通りに法を説く学者がいたとしても、それを信用しようとしないのです。
これでは、謗法でない者は、万人に一人であると述べられ、この誤った謗法の者を信じて、釈尊の悟りである法華経を信じない謗法こそ、堕地獄の業因であることを指南されています。続いて餓鬼界から天界の因縁を諭されています。
ここでは、小乗の戒を持〔たも〕って、後に、それを破った者は、六道の民と生まれ、大乗の菩薩戒を持〔たも〕って、後に破った者は、六道の王と生まれ、大乗の戒を持〔たも〕ち通した者は、仏と成ると結論づけられています。
さらに声聞、縁覚の二乗や菩薩になる因縁を御教示されています。
また、仏界について、法華経以前の大乗教、小乗教では、菩薩の四弘誓願を戒として、三阿僧祇の間、六度万行を修行し、見思惑、塵沙惑、無明惑を断じて仏に成るとされています。
それに対して本抄に「一代諸経に列座せる舎利弗・目連等の如き声聞是なり。永く六道に生ぜず、亦仏・菩薩とも成らず、灰身〔けしん〕滅智〔めっち〕し決定して仏に成らざるなり、小乗戒の手本たる尽形寿〔じんぎょうじゅ〕の戒は、一度依身〔えしん〕を壊〔やぶ〕れば永く戒の功徳無し」(御書211頁)とあるように小乗教の二乗は、決して、成仏できないと述べられています。
つまり、法相宗所立の教義では、衆生が本来そなえている性質を定性声聞、定性縁覚、定性菩薩、三乗不定性、無性の五性に立て分け、これらは、それぞれ別々であるとして、五性各別〔ごしょうかくべつ〕を説いているように、決して菩薩や仏になることは、ないとされており、ここでは、「永く六道に生ぜず、亦仏・菩薩とも成らず」と述べられています。
また、小乗の教えでは、煩悩を断じ尽くして、色心を無に帰することによって、二乗の最高の果位で理想の境地である無余涅槃〔むよねはん〕に入るとされていますが、大乗教においては、それでは、身を焼いて灰にし、心智を滅するので、ここでは、「灰身〔けしん〕滅智〔めっち〕し決定して仏に成らざるなり」と決して成仏できないと述べられています。
さらに、また倶舎論第14巻に「別解説の律義は尽寿と惑いは昼夜となり」とあり、小乗戒の功徳によって、ひとたび人界もしくは天界に生まれたならば、新たに戒体を獲得しなければ、その一生のうちに戒体を失って悪道に落ちることになります。
尽形寿とは、肉体、寿命が尽きることで、一生涯のことを言います。
小乗教の戒体は、一生の寿命を終えるとともに失われ、それとともに戒の功徳も尽きるので尽形寿戒と言うのです。
つまり小乗教の戒では、無量劫にわたって修行をする歴劫〔りゃっこう〕修行をしても、成仏しないのです。
いずれも法華経以外の小乗教、大乗教では、二乗は、成仏しないと述べられているのです。
しかし、法華経では、その二乗でさえも、成仏するとされているのです。
その理由として、相待妙と絶待妙を述べられています。
天台大師が法華玄義第2巻上で相待妙と絶待妙を説かれて、その中の相待妙とは、他と比較相対して、他が麤法〔そほう〕であるのに待〔たい〕して、こちらが妙法であると比較、論じていく教判を言います。
麤〔そ〕とは、粗悪で荒っぽいという意味です。
それに対して絶待妙とは、法華玄義第2巻下にあるように「開麤顕妙」「開権顕実」であって、すべてのものを包含し、一切を妙法の当体とする絶対開会〔かいえ〕を法華経の本意とすることを明かされています。
法華経の戒にも相待妙の戒と絶待妙の戒があるとされ、初めに相待妙の戒が明かされています。
つまり、法華経以外の梵網経や華厳経などの諸大乗経にも、法華経と同じ速疾頓成〔そくしつとんじょう〕が説かれているのに、なぜ、歴劫〔りゃっこう〕修行というのかという問いを設けられています。
その答えのひとつとして、確かに梵網経などでも速疾頓成を説いており、歴劫修行のみが法華経だけに説かれているとされています。
もう、ひとつの答えとして、無量義経で大荘厳菩薩が「無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぐれども終に無上菩提を成ずることを得ず」と述べているように、爾前の諸経に説かれる速疾頓成とは、凡夫のままで即身成仏するのではなく、凡夫のまま、無量劫の修行を経て、法華経に出会い、その結果、最後に即身成仏するのであって、厳密に云えば、歴劫修行であり、爾前の諸経には、即身成仏は、説かれていないとされています。
これは、相待妙の立場です。
次の絶待妙とは、末法の御本仏、日蓮大聖人の立場であり、麤法〔そほう〕に対して妙法というのではなく、麤法とか妙法とかいう相対的な考え方を超えたところを絶待妙というのです。
つまりは、私たちが信奉する戒壇の大御本尊のことであり、天台大師が、法華玄義において、法華経の法理から一切の教法を判釈すると、大乗と小乗、権教と実教の差別がなくなり、ことごとく大乗であり、真実の教えであるとして、絶待妙としたのは、この三大秘法の大御本尊に依るのです。
つまりは、三大秘法の大御本尊を受持することが、法華経を持〔たも〕つことになり、また、大乗戒を持〔たも〕ち、しかも小乗戒さえも持〔たも〕つことになるのです。
また、本抄においても「慳貪等無き諸の善人も謗法に依り亦謗法の人に親近〔しんごん〕し自然に其の義を信ずるに依って餓鬼道に堕することは、智者に非ざれば之を知らず」(御書208頁)とあり、この智者とは、日蓮大聖人のことであり、何の罪業がない者であっても、三大秘法の大御本尊を信じない謗法の者と親しくなれば、自然に謗法となって、必ず餓鬼道に堕ちることを御教示されているのです。
最後に三大秘法の大御本尊を信じることについて「法華経に於ては二乗七逆の者を許す上、博地〔はくじ〕の凡夫一生の中に仏位に入り、妙覚に至りて因果の功徳を具するなり」(御書216頁)と述べられ、法華経においては、二乗と七逆罪を犯した者にも受戒を許し、そのうえ、最も劣った底下の凡夫が一生のうちに等覚〔とうがく〕一転〔いってん〕名字〔みょうじ〕妙覚〔みょうがく〕によって仏位に入り、妙覚位に至って、仏因仏果の功徳を具〔そな〕えることができると述べられています。
等覚一転名字妙覚とは、法華経の会座に集った釈迦の弟子は、たとえ等覚の菩薩であったとしても、文底の意義をもってみれば、三大秘法の大御本尊によって妙覚の位になって、仏に成ることができるということなのです。
これは、絶対妙の立場であり、日蓮大聖人の仰せの通り、三大秘法の大御本尊を信じることが、仏教であり、すべての世間一般の善法を修することになるのです。そのことを世間一般の人々は、いまだ、知らないのです。
そのことを教えて、即身成仏に導〔みちび〕くことが、折伏なのです。


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