日蓮正宗法華講 開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑚資料


法華真言勝劣事 背景と大意


本抄は、文永元年(西暦1264年)7月29日、日蓮大聖人が43歳の時に鎌倉で著〔あらわ〕された御書です。
御真筆は、現存しておらず、対告衆も不明です。
内容は、当時の真言・密教と呼ばれる一派を、その源流にまで、さかのぼって破折され、法華経が唯一、絶対の法門であることを明らかにされています。
大聖人御在世の真言・密教には、弘法大師・空海が開いた東寺〔とうじ〕を中心とする真言・密教、いわゆる東密〔とうみつ〕と、天台宗の慈覚・智証らの比叡山を中心とする天台・密教、いわゆる台密〔たいみつ〕の二流派がありました。
東寺の東密の者達は「法華経は、華厳経よりも劣っており、ましてや大日経に対しては、なおさら劣っている」という空海の主張をしていました。
また、それに対して比叡山の台密の者達は、慈覚大師の「法華経の理は、大日経と同じ一念三千であるが、印と真言については、法華経が劣っている」と主張していたのです。
日蓮大聖人は、本抄で、これらの主張の詳細について、原文をそのまま用いることはせずに、その主張の要点のみを取り上げて、これらを破折〔はしゃく〕すると本抄で述べられています。
それは、いずれも真言・密教の者が仏教の経文に疎〔うと〕い民衆に、わざと難しいインドの梵語〔ぼんご〕や理解が難しい仏教用語などを使って、人々を騙〔だま〕していることを承知の上で、論点を絞り、その主張の間違いを明確にされる為であると思われます。
この弘法大師・空海は、大日経や竜樹作、唐の不空訳の金剛頂・瑜伽中発・阿耨多羅三藐三菩提・心論〔こんごうちょう・ゆがちゅうほつ・あのくたらさんみゃくさんぼだい・しんろん〕などによって秘密曼荼羅十住心論〔ひみつ・まんだら・じゅうじゅうしん・ろん〕を立て、顕教〔けんきょう〕である法華経と密教である真言の優劣を判断しています。

第一章 空海の十住心論

まず本抄では、弘法大師が立てたこの十住心〔じゅうじゅうしん〕論の要旨を挙げられて、その誤りを指摘されています。
弘法は、この十住心論の中で、大日経の入真言門住心品第一に十種の衆生の心相が説かれているとしました。
それに六道の凡夫の心から声聞・縁覚、さらに大乗教の各宗派に至る心の各段階が当てはまるとして、十住心の教判を立てたのです。
仏道を求める菩提心を、行願、勝義、三摩地の三種類に分けて説明し、最後の三摩地の菩提心を説いていない顕教では、即身成仏はできないとしています。
そして、この菩提心論によって最終的に真言宗を最高であると位置づけました。

この十住心論〔じゅうじゅうしんろん〕によると、

第一住心
異生羝羊心〔いしょうていようしん〕
凡夫が本能のまま悪行をなす心

第二住心
愚童持斎心〔ぐどうじさいしん〕
凡夫が五戒・十善等をなす心

第三住心
嬰童無畏心〔ようどうむいしん〕
現世を厭〔いと〕い、天上の楽しみを求めて修行する外道の住心

第四住心
唯蘊無我心〔ゆいうんむがしん〕
小乗の声聞の住心

第五住心
抜業因種心〔ばつごういんじゅしん〕
小乗の縁覚の住心

第六住心
他縁大乗心〔たえん・だいじょうしん〕
法相宗の住心 名称はあるが法相宗であるとは書いていない

第七住心
覚心不生心〔かくしん・ふしょうしん〕
三論宗の住心 名称はあるが三論宗であるとは書いていない

第八住心
如実一道心〔にょじつ・いちどうしん〕
天台宗の住心 名称もなく、当然、天台宗であるとも書いていない

第九住心 極無自性心〔ごくむ・じしょうしん〕
華厳宗の住心 名称はあるが華厳であるとは書いていない

第十住心
秘密荘厳心〔ひみつ・しょうごんしん〕
真言宗の住心

空海は、この十住心を立てて、真言が最も優れているとしているのです。

しかし、日蓮大聖人は、以下の疑問を本抄で挙げられています。

(1)大日経の住心品には、
第六住「他縁大乗」、第七住心「覚心不生」、第九住心「極無自性」の名称はあるが、この三つを法相宗、三論宗、華厳宗とする言葉は、ない。
さらに第七住心「覚心不生」と第九住心「極無自性」の間にある第八住心「如実一道」は、文章もそれに該当する内容もない。
おそらく、住心品の初めに「何を菩提とするか、如実に自心を知ることを云う」の文章があり、この文を取って第七住心「覚心不生」と第九住心「極無自性」の間に置いて、第八住心「如実一道」を作り、天台宗に当たるとしているのである。

(2)菩提心論が竜樹菩薩の著作とあることについても、竜樹菩薩は、大智度論において法華経こそ唯一の即身成仏の法であると述べており、このように菩提心論の真言のみが即身成仏の法であるとする、明らかに矛盾した説を言うはずがない。
それ故に菩提心論は、不空三蔵が勝手に作ったものとする批判がなされたのであり、仮に竜樹の説であったとしても、不空が漢訳をする際に我見を付け加えたものである。

(3)善無畏〔ぜんむい〕三蔵、金剛智〔こんごうち〕三蔵などが、話し合って、大日経疏〔しょ〕と大日経義釈〔ぎしゃく〕を作り、それを一行阿闍梨〔いちぎょう・あじゃり〕が執筆したが、この疏と義釈の中で経文の優劣を調べ「法華経と大日経とは、広と略との違いである」と定めたのである。
このようにインドから中国に真言を伝えた善無畏でさえ、法華経と大日経の優劣に対して、同じとしていたのに「空海の徳が、いくら高くても、どうして先師の主義主張に背いて良いのか」と五大院・阿闍梨・安然〔あんねん〕は、これを強く非難したのである。
これに対して、空海の門弟は、あれこれ言い訳をして、そのことは、守護国界主陀羅尼経、六波羅蜜経〔ろくはらみつきょう〕、楞伽〔りょうが〕経、金剛頂〔こんごうちょう〕経などにその義があるなどと答え、なんとか釈明したが、その非難に明確な反論ができなかったのである。

このように弘法の主張は「有文有義(文も義も有る)」でもなく「無文有義(文は無いがその義がある)」にもあてはまらず、信用するわけにはいかず、また、菩提心論が竜樹の説と確定していないのに、それを根拠とすることについても基本的におかしいとされています。
しかし、その後の東寺の弟子などは、弘法大師の名声に無理な解釈をして、結局のところ矛盾だらけで、まったく説明のしようもなく、最後には「伝教大師・最澄は、弘法大師の弟子である」などと言い逃れをして「宗旨の優劣などについては、あれこれ議論のあるところである」などと白〔しら〕を切っているのです。

第二章 華厳宗・澄観の「始見今見」の邪義

次に華厳経と法華経の勝劣についての華厳宗の見解を挙げられています。
中国・華厳宗の澄観〔ちょうかん〕は、華厳経の「始め我が身を見、我が説く所を聞き、即ち皆な信受して、如来の慧に入りき」を「始見」とし、法華経・涌出品の「我れは今亦た是の経を聞いて、仏慧に入(い)ることを得しむ」の文を「今見」として、これを「始見今見〔しけん・こんけん〕」とし、それ故に法華経と華厳経は、同等であるとする主張をしたのです。
この「始見今見」とは、天台大師が法華文句・第九巻上で、法華経・涌出品〔ゆじゅっぽん〕にある「是の諸〔もろもろ〕の衆生は、世世〔せせ〕より已来〔このかた〕、常に我が化〔け〕を受けたり。亦〔また〕、過去の諸仏に於〔おい〕て、供養尊重〔そんじゅう〕して、諸〔もろもろ〕の善根〔ぜんごん〕を種〔う〕えたり。此の諸〔もろもろ〕の衆生は、始め我が身を見、我が所説を聞き、即〔すなわ〕ち皆、信受して如来の慧〔え〕に入りにき。先〔さき〕より修習〔しゅじゅう〕して、小乗を学〔がく〕せる者をば除く。是〔かく〕の如き人も、我、今亦〔また〕是の経を聞〔き〕かしめて、仏慧〔ぶって〕に入〔い〕ることを得〔え〕せしむ」の文の解釈において「第一に始見今見とは、始め成道の時を始見と名〔なず〕く、法華経の座席久しくして後〔のち〕真実なるを今見と名くるなり」として「始め」とは初成道の華厳の時をさすとしています。
つまり「始見」とは、仏が始めて成道したのを見る時であり、「今見」とは、真実の法門を顕〔あら〕わしたのを見た時のことであり、初め華厳経によって成道したとされる者も久遠の過去に下された仏種が開花・結実したのであって、一切衆生を成仏させる教えは、法華経に限ることを意味しています。
したがって、妙楽大師が法華文句記・第一巻上に説いた「インドで釈迦牟尼仏に会い爾前〔にぜん〕教を聞いたことによって現れた衆生の功徳も、より詳しくみると、それは、久遠の過去に法華経の下種〔げしゅ〕を受けていたものが、現世に顕れたものである」という意味の「脱は現に在りと雖〔いえど〕も具〔つぶさ〕に本種を騰〔あ〕ぐ」の文と同じ意味なのです。

しかし、華厳宗の澄観は、愚かにも、この文章を拠りどころに初成道時に説かれた華厳経と最後に説かれた法華経は、同じく衆生を仏慧に入らせる法なので、同等であるとしたのです。
しかし、華厳経は、あくまでも始成正覚〔しじょう・しょうがく〕の立場であり、法華経は、久遠実成であるので、これは、澄観のまったくの己義なのです。
また、弘法が十住心の第九に華厳経を置き、第八の法華経より勝れているとしたのは、弘法自身、仏門に入って、まず三論〔さんろん〕宗の勤操〔ごんそう〕に師事して華厳経を学んだので、その華厳宗の教義がしみついて、脱けきれなかったのであり、また、華厳が法華に優るという義は、中国の天台大師出現の陳隋の時代よりも前の南三北七の時代からあったもので、天台大師が出現して法華経最第一の義を立てた後も、諸宗派は、なおも、この義を用いていたので弘法一人だけの見解では、ありません。
澄観は、天台の弟子の妙楽大師が、後の涅槃経は、先の法華経に及ばないとしたことで、それを真似て、先の華厳経は、後の法華経よりも優れているとしたのです。
大聖人は、この澄観の義が誤りであるならば、弘法の立てた華厳経は、法華経に優るという主張も当然、誤りとなるとされています。

第三章 二乗作仏・久遠実成こそ根本

天台・真言宗の書物には

①極理を説く法華経は、印と真言を略しているから略であり、同じく極理を説く大日経は印と真言を説いているから広である。

②法華経と大日経は、同と劣の二義があり、理は、同じで、事は、法華経が劣る。

③与えて言えば、大日経は、華厳、阿含、方等、般若、法華涅槃の五時に納まるが、奪って言えば、大日経は、五時の中に納まらない。

④法華経は、譬えて言えば、裸で闘う戦士のようなものであり、大日経は、印と真言で守られた鎧兜〔よろい・かぶと〕の戦士である。

⑤印と真言がなければ、その仏を知ることができない。

とあります。
それでは、何をもって、法華経と大日経とを比べて、理〔り〕が同じと言えるのでしょうか。
この問いに答えないで、ただ信ぜよという態度は、議論に背いており、仏の遺言である「法に依って人に依らざれ」との教えにも違背しています。

それに対して、天台・真言宗の者は、

①威儀形色〔いぎ・ぎょうしき〕経(法華曼荼羅威儀形色法経)不空の訳 
法華経の見宝塔品に説かれる多宝如来の出現を基にした宝塔品の儀式を、密教様式の曼荼羅〔まんだら〕に表した経

②瑜祇経(金剛峰楼閣〔ぶろうかく〕一切瑜伽瑜祇〔ゆがゆぎ〕経)金剛智あるいは不空の訳
金剛界・胎蔵〔たいぞう〕界の両部が不二であるとの極秘を理智不二の仏が明かした経とされ、真言宗では秘経として重視

③観智儀軌〔かんちぎき〕(成就妙法蓮華経王瑜伽観智儀軌)不空の訳
法華経の見宝塔品に説かれる釈迦・多宝の二仏並座の説を中心に、文殊・薬王・弥勒・普賢等の諸菩薩を配した曼荼羅が説かれている

威儀形色経や観智儀軌は、法華経を密教に変形した経論

によるが、文章については、口頭で述べるとの答えを記されています。

さらに法華経に印・真言を略すということに対して、

①仏が略して説かなかったとする説
仏が法華経から、印・真言を略したということは、どの経文にも書かれておらず、その証拠もないと述べられ、自分勝手で根拠のない説は用いるに値しない。

②経文を集めた人(経家)が略したとする説、
六波羅蜜経は、経家が印・真言を略しており、法華経の印・真言も、そうであるかもしれない。

③漢語への翻訳者である鳩摩羅什〔くま・らじゅう〕等が略したとする説、
旧訳の仁王経は、訳者が略したのであり、鳩摩羅什が要を取って訳したのかもしれない。

大聖人の見解として、威儀形色経や瑜祇経の文の通りであれば、仏説の段階では、法華経にも印・真言があったことになり、現存の法華経にないのは、経家や訳者が略したことになるとされています。
これらの事実からすれば、天台・真言宗が理同事異(理同事勝と同義)というのは、仏説における勝劣では、ないことになります。

天台真言宗では、法華経と大日経の理が同じとしており、仮にそれが正しいとしても、大日経義釈では、法華経が先に説かれ、大日経は、その後に説かれたとしているので、大日経は、法華経の義を重ねて説いたものであるから、流通分ということになります。
したがって、大日経で説かれたのは、印を結ぶ行為と真言を唱える行為の単なる儀式・形式にすぎないことになります。
いくら印・真言を兜〔かぶと〕や鎧〔よろい〕と言っても、それを着ける者に法華経という魂がなければ、ただの飾りでしかないのです。
また、大日経に「印」と「真言」が説かれているから、それが説かれていない法華経に優〔まさ〕るというのであれば、阿含経に説かれていることが大日経には、説かれていないから、大日経は、阿含経より劣ることになります。
同様に、無量寿経や般若経に説かれていることも大日経には、説かれていないので、そうすると大日経は、これらの経文より劣ることになると責められています。
また「印・真言」がなければ、仏を知る事ができないとしていますが、仏法の根本は、成仏することであって、仏を知る為の手段である「印・真言」ではないのです。
「印」や「真言」は、既に悟った仏の力や智慧を象徴するだけのものなのです。
一切衆生が成仏する方法は、法華経で説かれる一念三千の法門のみであり、いかに大日経には、「印・真言」が説かれていると誇っても、全く意味はないのです。

つまり、一念三千、・久遠実成の有無によって法華経と大日経の優劣を決めるべきなのです。
このように法華経の迹門で説かれた声聞・縁覚の二乗の成仏、本門で説かれた釈尊の久遠実成は、未曾有〔みぞう〕のことであり、一切衆生の成仏と、釈尊の久遠本地の開顕こそ、釈尊の出世の本懐であって、法華経で二乗作仏が説かれないならば、灰身滅智〔けしん・めっち〕によって身を灰とし、印を結ぶ手も、真言を唱える口もなくなってしまい、また、法華経・如来寿量品で五百塵点劫が説かれないならば、大日如来の本地もなく、それを天台大師は「天月を識らず但〔ただ〕池月を観ず」と述べているのです。
このように法華経・如来寿量品によって、天の月である釈尊と、水に映る多くの月のひとつである大日如来の立場が明瞭になったのです。
よって、法華経を誹謗することは、大日如来を誹謗することになるのです。
このように印・真言と二乗作仏・久遠実成とを比較すれば、その重要性には、天地雲泥の差があることを指摘されています。
さらに密教は、この印・真言による神秘性を帯びた祈祷〔きとう〕を通じて、現世利益を追い求める民衆を誑〔たぶら〕かし、その権威を確保しようとしているのです。
しかし、三世諸仏は、すべて法華経によって成仏し、一切衆生は、法華経を聞いて皆成仏道〔かいじょう・ぶつどう〕をなし得るのですから、真言宗の現世利益のみの祈祷に何の意味もないのです。
本抄では、その実例を挙げられ、これらは、真言の祈祷が法華経に劣る証拠であるとされています。

それに対し天台真言宗は、大日経義釈において「彼に諸法実相と言うは、即ち是れ此の経の心の実相なり」と解釈しており、

①法華経・方便品で説かれた「諸法実相・一念三千の法門」は、大日経の「心の実相」(厳密には「実の如く自心を知るなり」の文)と同じである。

②法華経・寿量品の久遠実成は、大日経の「我一切本初」と同じである。

③華厳経に「心は工〔たくみ〕なる画師の種種の五陰を画くが如く、一切世界の中に法として造らざること無し」の文を天台大師も一念三千を説明する上で用いており、これは、華厳経にも一念三千が説かれている証拠である。

としています。

しかし、法華経以外の経典のどこにも二乗作仏の言葉はなく、これでは、総願である四弘誓願の第一、衆生無辺誓願度の一切衆生をすべて悟りの彼岸〔ひがん〕に渡すという誓いは、果たせず、一切衆生の成仏は、叶わないことになります。
一切衆生・皆成仏乗は、仏教の基本であり、印・真言の有無などは、まったく意味がなく、なによりも二乗作仏、女人成仏、悪人成仏こそ重大なことなのです。

さらに真言宗では、善無畏述の大日経疏において、毘盧遮那〔びるしゃな〕法身(大日如来)の説法の時を「無始無終にして、また去なく来なし」と書いてあると述べ、このように大日如来は、無始無終であり、法華経の釈尊は、五百塵点劫成道であるので過去に際限があり有始有終であって、大日如来が優れているとしたのです。
しかし、この大日経などで説かれる無始無終は、法身のみであって、法身・報身・応身の三身の無始無終ではないのです。

それに対し、天台宗・比叡山・延暦寺の第三世座主・慈覚大師円仁、第五代座主・智証大師円珍は、天台宗の座主であったばかりか、日本仏教界において尊敬された高僧であり、ましてや、日蓮大聖人は、比叡山に学ぶ末端の僧侶の一人であり、慈覚、智証を僧侶の身でありながら否定するのは、師敵対ではないかとの非難に対し、その慈覚、智証こそ、天台宗の祖師である天台大師や妙楽大師、伝教大師の教えに背いていることを指摘され、涅槃経には「法に依って人に依らざれ」とあり、法門の正邪は、あくまでも仏の説いた経文を根拠とすべきであって人師・論師の言葉を用いてはならないと指摘されています。

第五章 大日経は、大日如来の説

大日経は、釈尊の説いたものではなく大日如来の説であるとの言い分に対して、大聖人は、七項目にわたって、それを破折されています。

第一に、大日如来の説と言っても現実には、釈迦牟尼仏が大日経として説いた教説であり、それは、仏の法身の立場を説明する為であって、大日が存在すれば、それ自体が法身と矛盾することになってしまうのです。

第二に、六波羅蜜経では、釈迦牟尼仏の諸経文を五蔵に分け、その中の第五の陀羅尼〔だらに〕蔵を真言であると定めています。
もし真言の諸経が釈迦の説でないならば、この経文に違背していることになります。
大乗理趣六波羅蜜多経によれば、釈迦所説の一切経を以下の五種に分類しています。

①素怛纜蔵(経蔵)
②毘奈耶蔵(律蔵)
③阿毘達磨蔵(論蔵)
④般若波羅蜜多蔵(仏の智慧を説いたもの)
⑤陀羅尼蔵(真言)

この六波羅蜜経の分類によれば、真言の諸経文が第五の陀羅尼蔵に属することは明白なのです。

第三に法華経の会座に集まった十方分身の諸仏が、法華経がすべて真実であることを証明しており、当然、大日如来もその中の一人として証明しているのです。

第四に、法華経方便品第二で、総諸仏・過去仏・未来仏・現在仏・釈迦仏の五仏が、皆、同じく一仏乗である法華経を説くことを出世の本懐とすることが述べられており、これを五仏章と言います。この大日如来も当然、この五仏の中に含まれているので法華経以外を説いて、それを最勝とすることはありえないのです。

第五に法華経・如来神力品には、「要を以て之〔これ〕を言わば、如来の一切の所有〔しょ・う〕の法、如来の一切の自在〔じざい〕の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深〔じんじん〕の事は、皆〔みな〕此の経に於〔おい〕て宣示顕説す」と説かれています。
この「如来」には、大日如来を含むすべての諸仏が含まれており、したがって、法華経は、釈尊所説の諸経の第一だけではなく、三世諸仏の全ての経文が法華経に収まっているのです。
しかも、ここで、法華経より優れた経文があるという説は、決して信用してはならないと念を押されているのです。

第六に、大日経などの真言の諸経の中で、法華経より優れているという文章は、全くないにもかかわらず、大日経が法華経に優るとしているのは、後世の己義、邪説なのです。

第七に天台大師以外に法華経の中から、十界互具・一念三千の法門を説き明かした人は、いないのです。
もしも一念三千を立てなければ、「性悪の義」が成り立たず、大日如来が不動明王や愛染明王の姿をもって現れることも、十界の曼荼羅〔まんだら〕や、金剛界の曼荼羅も、すべて根拠がないことになり、本無今有の外道の法と同じになってしまうのです。

第六章 天台の義を盗む真言宗

現在の真言宗は、この天台大師の一念三千の法理を盗んで、自宗の義としたのです。
それだけではなく、もし天台大師、妙楽大師が正しいのであるならば、この法華経を軽んじて諸経に劣ると誹謗した罪は、現世において舌が爛〔ただ〕れるのみでなく、その苦悩は、その死後においても長い劫にわたるであろうとされているのです。
それに加えて、天台大師の弟子の立場でありながら、法華経は、大日経に劣るなどという邪義を立てている慈覚・智証の場合は、どのような罪となるのであろうかと疑問を呈〔てい〕されて本抄を終えられています。



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