御書研鑚の集い 御書研鑚資料
四恩抄 背景と大意
本抄は、弘長二年(西暦1262年)一月十六日、日蓮大聖人が41歳のとき、流罪の地、伊豆の伊東から、安房の国(千葉県)天津の領主である工藤左近尉吉隆に与えられた御書です。
本文に心地観経〔しんじ・かんぎょう〕の四恩の語句があるところから、一般に「四恩抄」と呼ばれ、また、伊豆流罪が釈尊が説いた経文の中の予言と一致しており、この法難を通じて法華経の行者としての確信を述べられていることから、別名、「伊豆御勘気抄」と称されています。
また、稀に「工藤左衛門尉御書」とも称されています。
本抄の御真筆は、現存せず、本抄の後半が引文のみで終わっており、前半に比較して極端に短いことからすると、後の部分は、後世に欠損したものと推察されています。
工藤左近尉吉隆は、安房国東条郡天津(千葉県鴨川市天津)の領主で工藤民部大輔小四郎行光の子と伝えられています。
建長から正嘉の時代にかけて、四条金吾、池上宗仲らと前後して入信しました。
日蓮大聖人が、この伊豆流罪の中にあっても、御供養を欠かすことなく、その後、日蓮大聖人は、西条花房の蓮華寺に移り住んでおられましたが、文永元年(西暦1264年)11月11日に、この工藤吉隆が日蓮大聖人を自邸に御招待申し上げました。
その道中の途上、小松原にさしかかったとき、東条の地頭、東条景信の一隊が大聖人一行を襲撃してきたのです。
念仏の強信者であった東条景信は、大聖人が建長五年に立宗されて以来、ことごとに大聖人に敵対し、大聖人殺害の機会をうかがっていたのです。
その襲撃の報を聞いた工藤吉隆は、僅かの手勢を率いて駆けつけ、日蓮大聖人を護り助けましたが、弟子の鏡忍房〔きょうにんぼう〕日暁とともに戦いの中に壮烈な最後を遂げたのです。
大聖人御自身も、東条景信の太刀で眉間に傷を受けられ、また、左手を折られるなどの大難を受けられました。
この小松原法難のときに命を顧みずに殉死したことに対し、日蓮大聖人は、工藤吉隆に妙隆院・日玉上人の戒名を与えられ、僧の礼をもって弔〔とむら〕われました。
また、このとき工藤吉隆の夫人は、懐妊中でしたが、この子は、後に出家し、刑部阿闍梨日隆と称しました。
念仏者、東条景信は、この後、狂死したと伝えられています。
工藤吉隆へ与えられた御書は、この四恩抄の一篇のみです。
本抄、内容全体については、伊豆流罪について、二つの大きな意味があると御教示されています。
その第一は、伊豆流罪には、大きな歓びがあり、その第二には、伊豆流罪には、大きな歎〔なげ〕きがあると述べられています。
また、その大きな歓びの中のひとつに、伊豆流罪と釈迦牟尼仏の経文とが一致していることを挙げられています。
ふたつには、日蓮大聖人、自らが法華経の行者であることが証明されたことを歓ばれています。
さらに、この伊豆流罪に処した北条重時、北条長時、親子こそ、この大きな歓びを与えた者であり、その恩について述べられています。
そして、その四恩に答える方法は、三宝〔さんぽう〕への報恩を尽くすことであると結論されています。
また、伊豆流罪の大きな歎〔なげ〕きとは、この大きな歓びを与えてくれた、北条重時、北条長時、親子が、法華経の行者である日蓮大聖人を迫害した罪で、一族が亡び、無間地獄に堕ちることを指摘されています。
本抄の最初に、そもそも、我々が住む世界は、苦悩に耐え忍ばなくてはならない世界であり、それ故に梵語で「勘忍」という意味の娑婆世界と呼ばれ、また、それ故に仏を「能忍」と言うのは、この娑婆世界を「能〔よ〕く忍〔しの〕ぶ」という意味であると御教示されています。
そのような娑婆世界において、釈迦が説く法華経、法師品の「猶多怨嫉〔ゆた・おんしつ〕況滅度後〔みょうめつどご〕」の経文と日蓮大聖人の伊豆流罪が完全に一致していることに、心の底から満足されているのです。
それは、まさに、この釈迦が説いた法華経、法師品の「猶多怨嫉況滅度後」の文が間違いではないことを意味するからなのです。
また、この事に依って日蓮大聖人が、この法華経に説かれている末法の法華経の行者であることが、証明されているのです。
つまり、法華経は、末法に出現される日蓮大聖人の予言書なのであって、それこそが釈迦牟尼仏が法華経において言いたかった要旨なのです。
そのことを大聖人は、伊豆流罪の大きな歓びであるとされているのです。
これは、大聖人自らの歓びではなく、釈迦の仏教である白法が穏没〔おんもつ〕した我々、末法の衆生すべての歓びと言えるのです。
さらに、この伊豆流罪によって、それ自体が法華経の故の大難であるので、日蓮大聖人の日々の行動の行住坐臥〔ぎょうじゅうざが〕すべてが、法華経を読み、行じていることになっていると、末法の御本仏の示同凡夫〔じどう・ぼんぷ〕の姿を御示しになっています。
それを示す伊豆流罪の原因を作った執権、北条長時について、恩があることを示され、これを心地観経〔しんじ・かんぎょう〕にある一切衆生への恩、父母への恩、国王への恩、三宝への恩の四恩とされています。
この四恩については、名前は、一応、心地観経に借りられてはいますが、その実義は、日蓮大聖人が末法の御本仏であることを証明し、それを助けたことを言われているのであって、末法の御本仏である日蓮大聖人に対して報恩感謝することこそ、真の四恩となるのです。
その根拠として、本抄において、四恩の中で、一切衆生の恩、父母の恩、国王の恩については、恩を知ることの重要性を述べられており、それに対し、三宝の恩については、現実に報恩をしなければならないことを強く主張されているのです。
その「仏、法、僧」の三宝とは、究極的には、日蓮大聖人を仏とし、三大秘法の本尊を法とし、日興上人を僧とするのです。
それ故に日蓮大聖人を仏と敬〔うやま〕い、諸仏の師である三大秘法の題目を唱え、また、その大聖人に仕え従い、助ける事こそ、三宝の恩を報じ給うことになり、さらに、それがそのまま、一切衆生の恩、父母の恩、国王の恩を知る者になるのです。
本抄に「仏宝・法宝は必ず僧によて住す」(御書268頁)とあるのは、その為であり、雪山童子〔せっせん・どうじ〕や常啼菩薩〔じょうたい・ぼさつ〕、その他の先例を挙げられているのも、大聖人、自らがその手本として、三宝に対する報恩の実践をされて、示同凡夫の身として、法華経の故に伊豆流罪の大難にあっている事こそ、これらの過去の人々をも超える報恩の実践であることを述べられ、これを歓びとされているのです。
吾妻鏡〔あづまかがみ〕では、弘長元年(西暦1261年)6月1日、北条重時は、厠〔かわや〕で「怪異」により「心神網然」になったとされ、以後は「瘧病〔おこり〕」のような症状となったと言います。
その後、6月11日に鶴岡八幡宮の別当の隆弁〔りゅうべん〕に加持・祈祷をしてもらったところ、隆弁から6月22日に症状が回復すると告げられ、実際に、その予言通りに22日に、重時は、病気から回復し、6月25日には、喜んだ重時や一族から、隆弁に馬、銀、剣などを贈ったとされています。
しかし、それから5か月後の11月3日、64歳で没しました。
死因は不明ですが、6月の病いが再発したともいわれており、吾妻鏡には「発病の始めより万事を擲〔なげう〕ち、一心に念仏す。正念に住し、終を取ると云々」と記〔しる〕されています。
日蓮大聖人は、弘長3年(西暦1263年)2月に伊豆流罪を赦免となり、鎌倉へ帰られました。
その翌年の文永元年(西暦1264年)8月21日に執権の北条長時が35歳で病死しました。
すでに北条重時の長男で嫡男であった北条為時は、嘉禎元年(西暦1235年)10月に疱瘡〔ほうそう〕にかかって重篤になり、精神的疾患を伴う後遺症が残った為に重時より廃嫡〔はいちゃく〕されており、次男の北条長時が事実上の跡取りでした。
その北条長時も相次いで亡くなったのです。
さらに三男の北条時茂〔ときしげ〕も文永7年(西暦1270年)正月27日に六波羅探題在任中に京都において30歳で死去しました。
四男義政は、建治元年(西暦1275年)、元の皇帝から送られた杜世忠ら使者一行を時宗が処刑しようとした時に反対して、その後、疎〔うと〕んじられ、建治3年(西暦1277年)4月に突如、善光寺に出奔し、出家してしまったのです。
そうなれば、北条重時の子供は、ただ五男の北条業時〔なりとき〕だけとなったのですが、弘安10年(西暦1287年)6月18日に連署を辞して出家し、26日に享年47歳で死去してしまいました。
建治三年(西暦1277年)11月20日の「兵衛志殿御返事」には「極楽寺殿はいみじかりし人ぞかし。念仏者等にたぼらかされて日蓮をあだませ給ひしかば、我が身といゐ其の一門皆ほろびさせ給ふ。たゞいまはへちご〔越後〕の守〔かみ〕殿一人計りなり。」(御書1185頁)とあります。
また「聖人御難事」には「過去・現在の末法の法華経の行者を軽賤〔きょうせん〕する王臣・万民、始めは事なきやうにて終〔つい〕にほろ〔亡〕びざるは候はず、日蓮又かくのごとし」(御書1397頁)とあります。
さらに、また「妙法比丘尼御返事」には「長時武蔵守〔ながとき・むさしのかみ〕殿は極楽寺殿の御子なりし故に、親の御心を知りて理不尽に伊豆国〔いずのくに〕へ流し給ひぬ。されば極楽寺殿と長時と彼の一門皆ほろぶるを各〔おのおの〕御覧あるべし」(御書1263頁)とあります。
いまさらのように正法誹謗の恐ろしさを知る思いですが、日蓮大聖人が仰せの大きな歎〔なげ〕きとは、このように伊豆流罪にあたって経文を引かれて、法華経の行者である日蓮大聖人を迫害した者の罪の大きさを述べられて、その結果である堕地獄を歎かれているのです。
そして、この伊豆流罪における「大きな歓び」と「大きな歎〔なげ〕き」こそが、法華経の行者である日蓮大聖人こそ、末法の御本仏であることを証明しているのです。