御書研鑚の集い 御書研鑚資料
乙御前御消息(身軽法重抄) 背景と大意
本抄は、宛名が「乙御前〔おとごぜん〕へ」となっていることから、乙御前御消息と称していますが、内容から言えば、その母である日妙聖人〔にちみょう・しょうにん〕に与えられた手紙とされています。
別名を「身軽法重〔しんきょう・ほうじゅう〕抄」と言います。
著作された年については、本抄に「八月四日」とだけ記〔しる〕されており、年は、定かではありませんが、本文中に「当世の人々の蒙古〔もうこ〕国をみざりし時のおご〔驕〕りは、御覧ありしやうにかぎ〔限〕りもなかりしぞかし。去年の十月よりは一人もおごる者なし」(御書896頁)とあることから、文永の役〔えき〕が起きた翌年、すなわち建治元年(西暦1275五年)の書であり、大聖人が五十四歳の御時、身延〔みのぶ〕において認〔したため〕られたと思われます。
御真筆・写本共にありません。
日妙聖人は、当時、夫と離別し、幼い乙御前を養育しながら信仰に励んでいた鎌倉在住の女性信徒で、大聖人が佐渡流罪の身となられた時、多くの信徒が退転〔たいてん〕していく中、不惜身命〔ふしゃく・しんみょう〕の信仰を貫き通した方です。
また、日妙聖人は、大聖人がおられる佐渡の地まで乙御前を連れて、鎌倉より山海の険路を渡り、訪ねられておられるのです。
大聖人は「日妙聖人御書」の中で「日本第一の法華経の行者の女人なり。故に名を一つつけたてまつりて不軽菩薩の義になぞらえん。日妙聖人等云云」(御書607頁)と仰せられ、そのような強盛〔ごうじょう〕な信心に対して「日妙聖人」の法号によって、称賛されています。
その佐渡流罪を赦免〔しゃめん〕された大聖人は、鎌倉幕府の命令により、平左衛門尉頼綱〔へいのさえもんのじょう・よりつな〕と対面しましたが、その折、頼綱から、蒙古襲来〔しゅうらい〕の時期について質問を受け、大聖人は、その問いに対し、「今年は一定なり」(御書1067頁)と明確に答えられて、蒙古の襲来があることを断言され、この国を救う道は、日本国一同が邪宗の謗法を断ち、正法に帰依する以外にはないと諌言〔かんげん〕されたのです。
この予言の通り、この年の十月には、未曽有〔みぞう〕の国難ともいうべき蒙古襲来が起こり、世の中は騒然とした状況となっていきました。
明けて、建治元年四月、再び蒙古の使者、杜世忠〔とせいちゅう〕が日本に到着すると、一行は、理不尽にも捕えられ、八月になって太宰府から鎌倉へと護送されました。
執権・北条時宗は、この元〔げん〕の使いを尋問の上、九月に竜口〔たつのくち〕の刑場で斬首〔ざんしゅ〕してしまったのです。
これにより、蒙古の再襲来の不安が、ますます増大し、人々が動揺をする中、日妙聖人は、鎌倉から身延の大聖人を訪〔おとず〕れ、信心の指導を受けており、本抄は、そうした日妙聖人の厚き求道心を賛嘆されています。
本抄の最初に、中国にまだ仏法の伝わっていなかった時には、中国の賢人・聖人などが作った書によって、人に対する礼儀や父母への孝行を教え、世の中を治めたので世の人も従い、天も願いを聞き入れられたのですが、インドから仏経が伝来して来ると仏教を用いるべきかどうかで争いが起き、朝廷に召されて対決したところ、外典の者が負けて仏の弟子が勝ったと述べられ、さらに、その仏経の中でも、また勝劣浅深があり、小乗経という経は、小船のようなもので大乗教は、大船であり、そのうえ法華経という教えは、大船の中でも大量の宝を積み、何千人が乗って、高麗〔こうらい〕などの外国へも渡ることができる、特別な経文であることを説明されています。
この一仏乗を説いた法華経という大船によって、悪人の提婆達多も悪王の阿闍世〔あじゃせ〕王も竜女〔りゅうにょ〕という蛇体〔じゃたい〕の女性も仏になったのであり、また、悪世末法の五濁〔ごじょく〕悪世の男女に、この法華経を贈られており、この法華経こそ、唐船のように、一切衆生を彼岸〔ひがん〕へ渡し得る一仏乗の経典であるとされています。
ここまでは、女性である日妙聖人にも、五重相対〔ごじゅうのそうたい〕の内外相対・大小相対・権実相対を船に譬えて、わかりやすく教えられています。
それ故に大日経を信じる真言師と法華経の行者とを比べれば、犬と師子のようなものなのですが、世間では、真言師は見るからに尊く、智慧ありげな様子をしており、蒙古国の襲来がなかった時のこれらの者の思い上がりは、大変なものでしたが、蒙古が攻めて来てからは、ことごとく臆病となってしまったことを指摘されています。
それは、鎌倉幕府や朝廷より、蒙古調伏〔ちょうぶく〕を命じられて、祈祷を繰り返す真言師の無様な様子を述べられているのです。
そのような中でも日妙聖人は、女性の身でありながら、日蓮大聖人が流されていた佐渡にまで、はるばる訪ねて来られ、このたびも、また身延に訪〔たず〕ねて来られたことを讃えられています。
また、日蓮大聖人を、今まで、すべての人々が迫害しましたが、こうして無事に生きていられることは、章安大師が涅槃経疏〔そ〕第十二巻に「身軽法重・死身弘法」と著わした「法華経を信ずる心」の強い故であると御教示されています。
また、京都や鎌倉も、いずれ壱岐・対馬〔つしま〕のようになり、その時には、大聖人を無視した者や念仏者・禅宗の者までも大聖人に手を合わせて、南無妙法蓮華経と唱えることになるとされています。
それは、一人の盲目を開く恩でさえ言葉に言い表わせないのに、日本国の一切衆生の眼を開く恩、まして全世界の人々の眼を開く恩がある日蓮大聖人に対し、今まで、その正しい主張を用いず、その為に国が亡びようとしているのであると、断言されているのです。
最後に「何かあれば身延へ来てください。ともに餓え死にしましょう。乙御前は、どんなにか聡明になられたことでしょうか」と述べられて、本抄を終えられています。