日蓮正宗法華講 開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑚資料


南部六郎殿御書 背景と大意

本抄は、文永8年5月16日に認〔したた〕められた御書です。
別名を「国家謗法之事」と言われ、国家の謗法について述べられています。
南部六郎〔なんぶ・ろくろう〕とは、甲斐源氏の末裔〔まつえい〕・甲州・南部三郷(波木井〔はきい〕・御牧〔みまき〕・飯野)の地頭・波木井実長〔はきい・さねなが〕のことで、南巨摩〔こま〕郡の波木井に住していたので、波木井殿と称されていました。
後に法寂房日円と名乗っています。
文永の始めの頃、日興上人に従って大聖人に、帰依〔きえ〕しました。
佐渡流罪を赦免〔しゃめん〕された日蓮大聖人は、三度目の諫暁〔かんぎょう〕を幕府の代表者である平左衛門尉〔へいのさえもんのじょう〕に対して行いましたが、結局、用〔もち〕いられませんでした。
そこで大聖人は、波木井実長の所領である身延〔みのぶ〕山に入られて、ここで九ヵ年の歳月を送られ、弘安二年にこの地で、出生の本懐である戒壇の大御本尊を御図顕されたのです。
大聖人の一期〔いちご〕・化導〔けどう〕の重要な時期でもありましたが、この身延の地を選ばれた理由は、波木井実長への信頼があったからでは、ありませんでした。
日蓮大聖人がこの身延に入山された理由は、日蓮大聖人の日興上人への信頼に依るところが大きいのです。
この波木井氏は、もともと念仏者であり、穏やかである反面、世法に流されやすく、日蓮大聖人の法門への理解よりも、富士方面の弘教を進められる日興上人の人徳によるところが大きいのです。
つまり波木井実長の外護は、その裏には、この波木井実長の初発心〔しょほっしん〕の師である日興上人の教化・指導があったのです。
それ故に日蓮大聖人が入滅され、日興上人がその後を継がれると波木井実長は「さて(は)、くをんし〔久遠寺〕にほくゑきやう〔法華経〕のひろまらせを(は)しまして候よしうけ給(は)り候事、めでたく、よろこび入(っ)て候。さて御わたり候事こしやう人(故聖人)の御わたり候とこそ思(い)候ひしうへ」と日興上人が身延に居られることは、故日蓮大聖人が居られるように感じておりますと書簡に述べているのです。 しかし、そこへ軟風の民部阿闍梨〔みんぶ・あじゃり〕・日向〔にこう〕が現われ、学頭職に就くと次第にその言葉に乗せられて、数々の謗法を犯すようになります。
それは、釈迦立像の作成、三島神社の参詣〔さんけい〕、九品念仏道場の建立、福士(山梨県南巨摩郡南部町福士)の念仏供養塔へ寄進などです。
本抄においては、それらの謗法について、数々の文を挙げて、その怖ろしさを述べられています。
涅槃経には、もし仏法を壊〔やぶ〕る者を見て、それを置いて呵責〔かしゃく〕せず、この置の字を怖〔おそ〕れないならば、今は良いかも知れないが、その後を見なさい。無間地獄は、疑い無いとあります。
また、南岳大師の四安楽行〔しあんらくぎょう〕の文には、もし、菩薩が居て、悪人を守って罰を与えず、それによって悪を増長させ、正しい人を悩ませ、正法を破壊するならば、この人は、実に菩薩ではなく、外には、菩薩を詐称〔さしょう〕し、私は、あえて我慢していると常に言うのです。その人は、命終して諸の悪人とともに地獄に堕ちるとあります。
さらに唐の玄奨三蔵訳の大乗大集地蔵十輪経には、もし誹謗の者ならば、一緒に住んではならない。また、親近してもならない。もし、親近し、一緒に住めば、そのまま阿鼻地獄に向かうとあります。
妙楽大師・止観輔行伝弘決の四には、もともと悪人ではなくても、悪人に親近すれば、その後に必ず悪人と成って悪名が天下に広がると述べられています。
さらに伝教大師は、「国に謗法の声有るによて万民数を減じ、家に讃教の勤めあれば七難必ず退散せん」(御書464頁)と国家に謗法があれば、国家は、衰亡し、家に法華経があれば、薬師経で説かれる人衆疾疫難(疫病)・他国侵逼難(戦争)・自界叛逆難(反乱)・星宿変怪難(天変)・日月薄蝕難(日照不足)・非時風雨難(暴風雨)・過時不雨難(干ばつ)の七難を免〔まぬが〕れられることを御教示されています。
それは、日向〔にこう〕にそそのかされて数々の謗法を繰り返した地頭・波木井実長に対して、すでに大聖人は、このように厳しく御指導されていたのです。
それにも関わらず、その謗法を改めることもなく、波木井実長は、「我は民部阿闍梨を師匠にしたるなり」(原殿御書)と述べて、日興上人との関係を断ったのです。
日興上人は、「地頭の不法ならん時は我も住むまじき」と述べられ、「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(御書1675頁)との大聖人の御遺命に従い、正応二年(西暦1289年)春、日興上人は、戒壇の大御本尊を始め、すべての重宝とともに、身延を離山されて、南条時光が地頭である富士・上野の地に移られたのです。


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